K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生まれつきの

性格とか人間性みたいなものって、親の教育であったり生活環境であったり、外部から影響を受けて後天的に形成されていくものだと思って生きてきた。実際、その考えで大部分は正しい気がしている。
けれど、生まれつきの性質も少なからず関係しているように思う。これは研究データを参照するわけではない、ただの感覚的な話だ。

 

 

兄弟姉妹で性格が真逆なんて話は、特に珍しくもない。同じ家庭で生まれ、同じように育てられたはずなのに、性格が大きく異なるというのは、いったいどういうことか。
もちろん生まれた順番、長男と次男といった呼称によって、異なる立場が与えられるわけだから、やはり外的な構成要素は無視できないのだけれど、それだけで、個人の性質や人間性に決定的な変化をもたらしてしまうものなのだろうか。

私には兄弟姉妹がいる(あえてボカした言い方をしている)けれど、それぞれの性格は大きく異なる。同じように育てたと親は言っているが、あまりにも違いすぎて、別の世界線からやってきたのではないかと、本当に血縁があるのかと、容易に疑ってしまえるくらいだ。
長年生活を共にしているから、思考・行動パターンを読むことはできるけれど、互いの考えを理解することは到底できないし、真似しようとしても難しい。

育つ環境と性格の相関関係は、なかなか複雑に思える。
双子だって性格が同じというわけではないのだろうし(むしろ創作においては真逆の描写が多いが、現実はどうなのだろう)、人間性を成り立たせている根底の部分は、先天的に決まっているのではないか。そう思ったのだ。
いや、でも双子は遺伝子が同じであるから、それでも大きな違いが出てしまうということは、やはり後天的な作用が大きい? よくわからない。

 

たとえば性格の違いによって、最近は陽キャ陰キャ、なんて括られ方をする。
人の性格なんて、そんな単純なものではないと思うし、極端な二項対立はナンセンスではあるけれど、特徴的には非常にわかりやすい。
それぞれが持っている特性という面から考えると、現代社会においては、生きやすさがかなり違うと思う。

問題としたいのは、このように性格を大別できるとして、どちらに属するかを決定する原因が成長過程ではなく生まれもった性質なのだとしたら、どうしようもないということだ。
社会は陰キャに厳しい。男女差以上に、陰キャに対しての当たりが強い。個々の意思にかかわらず、仕組みからしてそうなっている。陽キャにバフ、陰キャにデバフが付与されるフィールド魔法のごとき呪いがかかった世界。

陽キャ陰キャのように振る舞うことはできるかもしれないが、きっと相当なエネルギーを消耗するはずだ。私が陽キャになることも、やる気さえあれば不可能ではないだろう。ただ、生まれもった性質という観点からすれば困難を極めるわけで、心身にかかる負担は絶大なものだ。自然体でいるときと真逆の方向に向かうのだから、当然とも言える。陽キャに適合した社会では、だから一生、陰キャは呼吸困難に陥らざるを得ない。

近年、Twitterなどの発達・普及によって、多少は陰キャが伸び伸びと過ごせる空間が拡張されてきた。ただそれでも、どちらかと言えば日々の苦難からの逃避先として選ばれている感は否めない。そこを主戦場にすることは、難易度が高い。どちらかと言えば暴走しがちだし、昨今の情勢もあって、かなり殺伐としてきている。
なお、私は前々から書いている通りTwitterが苦手なので、個人的には決して安らぎの空間とはなり得ないだろう。

陰キャのクラスで産み落とされた存在は、やがて社会のプレッシャーによってますます歪み、卑屈になり、暗いオーラを強めていく。
人知れず膨れ上がった力は、いずれ爆発するだろう。
中途半端に陰属性を持ってしまっている人間にとって、彼らは結構な迷惑なのだ。目立つ害悪の塊が、我々の代表のように扱われる。そして陰キャ全体の排斥につながる悪循環。
もともとは注目を浴びること自体、苦痛に感じやすい種族であるはずなのに、一部の変種のせいで大袈裟に取り上げられて議論の焦点となるのは、つらいものである。
できれば少しずつ空気が柔らかなものへと変化し、清浄化が進めばよいのだが、現状を鑑みるに、道は険しく思える。
下手なコミュ力を無理に動かそうとするから、そうなるのだ。ちょっとずつ慣らしていくか、狭い隙間を見つけてひっそりと生きてさえいれば、誰かの妨げになることもないのに。

基本的に、陽キャは何も悪くない。陰キャと性格が合わないというだけのことで、実際にはいい人がとても多い。人間的に素晴らしいと感じたり、尊敬や憧れといった感情が芽生えることだってある。
陽キャに求められる行動や水準を、別種族である陰キャに適用する負担が大きいだけなのだ。
それぞれの線引きも簡単ではないし、そもそもすべての人間に対して一定の性質を求めること自体、あまりにも不合理ではないかと思うのだ。*1

 

私は、私が現在のような性格や考え方をしていない姿を想像できない。無理やり思い浮かべることはできるかもしれないけれど、とても気味が悪い。
記憶にある限りの、過去のあらゆるシーンを想起しては、その時々における選択や思考パターンを省みてみる。すると、やっぱりそうなるよなぁという納得感ばかり出てくる。その先の未来を知っている今の私が過去にタイムリープしたら、場合によっては違う行動を取る可能性が高いのだけれど、素の私という存在は昔から現在まで一貫している気がする。
実感としては、なるべくしてこうなったという他ない。
心身の成長や環境の移り変わりによって、当然のことながら変化はある。けれど、その変化は自然なものだ。フカマルガバイトになるし、ビブラーバガブリアスになれないのだ。

 

成長に作用する可能性のあるものは、ほとんど無限に近く、何がどうなって現在の私を形作っているのか解き明かすことは不可能だけれど、やはり主観的に思うのは、私は「陰」の要素を多く含んで生まれてきたのだろうということだ。
それを悪いことだとは思わないし、こんな性格だからこそ出会えた素敵な物事がたくさんあるのだから、不満などない。
努力値や技は後からいくらでも調整できるし、人生にとって重要なのは、持っている力をどう活かすかなのだから。

まあでも、もう少し生きやすくならないのかなぁ、なんてことをまったく思わないと言えば、それは嘘になってしまう。
大人気ゲーム「人生」の環境はめちゃくちゃだし、バランス調整には失敗している。我々プレイヤーはひたすら堪え忍び、ささやかに抗うことしかできない宿命を背負っているのかもしれない。

 

 

Drawing on 2020-06-19

20200619

見出しの表記を気分で変更。
「模写と何も見ないアウトプットの繰り返し」を数年前から続けているけれど、それぞれにかける期間や時間の効果的な比率がいまだに掴めない。一生の課題なんじゃないかと思う。

*1:話が大幅に逸れてしまったので割愛。勢いだけで書くのはよくないね。