K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

旅行に想いを馳せる

毎年九月に旅行をしていた。
大学時代から続いている年中行事で、そこそこ付き合いのある友人らと共に、レンタカーを使って観光地を巡るやつ。
まぁ私は運転しないので完全に他人任せの気楽な旅なのだが。

 

夏になると決まって企画を立ててくれる人がいた。
年によっては比較的涼しい時季ということもあったけれど、ここ最近は九月の連休で行くのが恒例になっていて、予定が立てやすく十人近い人数になることもあった。
私は、大学一年の頃はまったく目立たない陰そのもののような存在だったので、記念すべき第一回には参加していないのだが、大学二年の二回目以降は、企画が立てば必ず参加するようにしていた。
親しい間柄で旅行をするのは、とても楽しいものだ。特に大学卒業後は普段なかなか会えないこともあって、その時間が持つ意味合いというか、それぞれにとっての価値が高いものになっていたように思う。

当たり前のようになっていた、退屈な日常からはかけ離れた年に一度のひと時は、しかしながら継続することはなさそうだ。
今年は一切の連絡がない。生きているのだろうが、生きているのかもわからない。
まぁ彼らのTwitterを見ていれば、更新頻度に差はあれど確かに何かしらの確認はできるから、むしろ死んでいるかもしれないと客観的に思われるのは、三年近く完全に沈黙している私という事実はさておき。

こういう習慣というのは、特に年単位で続いてきたものって、続いている限りは強制力のようなものが働いて、今年もやらなければというモチベーションになりやすい。
けれど、おそらく不本意とはいえ外的要因によって今年のように途切れてしまうと、来年以降に流れが戻ってくるのか怪しく思えてくる。
毎年の恒例ではなくなってしまうことで、みんな忙しいだろうからという、後ろ向きな理由が先行してくる。気分が乗ってくる前に、やらない理由を探し始める。

悲しいけれど、人間というのはそういうものなのではないか。友人は大切である一方で、ちょっと距離が離れてしまえばただの他人だ。家族とは違う。
頻繁に会っているならともかく、半年とか一年とか空いてしまうと、もはや会おうとすることが億劫になる。よく会う面子だけで集まっていたほうが気楽なのだ。しばらく会わない人間はどんどん会わなくなる。
こうやって、人の輪は年々縮小していくのだろう。

過去数年を振り返ってみて、楽しかった思い出が何かと考えると、上位に浮かんでくるのはほとんどが旅行の記憶だ。
普通の生活をしていても、些細なレベルで楽しい出来事は無数にあるはずなのに、どれも印象に残っていない。何年も経ってから語れる話なんて、旅行以外に何があるというのだろう。
よく考えてみたら、まったくないわけではない。飲み会や宅飲み、徹夜で遊んだ日のことも、結構覚えている。それにしたって、友人と会って何かしらのエピソードが出来上がった結果だ。
一人で何かをしたことが、後々しみじみと思い出されることなんて滅多にない気がする。その事実がひたすらに寂しくて、この上なく心細い。

 

今年は正月の新年会以来、友人に会えていない。会えていないどころか、もはや友人ではなくなっている可能性すらある。見方によっては喜ばしくも悲しいことに、こういう状況下でも仲のいい連中は会っているのだ。誰とも会えないでいる私は、どれだけの空虚を抱えなければならないのだろうか。
ずっと楽しみにしていたライブも中止になり、生きがいの一つを潰された。
旅行にも行けず、かつて当然のものとして享受していた特別な出来事の数々が、ことごとく失われてしまった。

好きなアニメの聖地に行ってみたいと思っていた。今年は無理だった。来年以降も駄目かもしれない。
好きな行事が催されない悲しみと、個人的な友人関係に対する複雑な感情と、その間に絶妙なバランスで存在を保ってきた生きがいの崩壊を目の当たりにして、私の精神は今、とても不安定な状態にあるような気がする。
それに加えて、あらゆる行動が裏目に出る不運の積み重ねが追い討ちをかけてくる。ここしばらく、救いがない。

私の主観は、とても落ち着いていると主張するが、長年にわたって私を見続けている間主観的な私は、非常に不穏なものを感じ取っている。
これまで大丈夫だったのだからきっと問題ないと楽観視してみるも、この半年ほどで私を圧迫しているであろう大いなる力は、空前絶後の未知の塊であるから、直感とか経験とかに頼りきりになることを危険視したほうがよいのではないかと、内なる自分が囁いてくる。
具体的にどんな施策があるわけでもなく、けれども流れに身を任せるだけでもなくて、今にも崩れそうな不安定な足場を懸命に跳び移りながら、なんとか前に進んでいく。

 

旅行の話からとんでもなく飛躍してしまったが、結局のところ、できていたことができなくなって昔はよかったと懐かしむ老害心のようなものが滲み出てきているだけなのだろう。
ときには、ありのままの現実を受け入れて、状況に応じて生き方や楽しみ方を変えていく柔軟性を獲得すべきだ。獲得というか、元来そういう性質は持っているはずなのだ。目の前の現象に惑わされて捨ててしまわない、忘れてしまわないことが肝要だ。

私が私のためにできることは何か。消えてしまわないように、考えなければならない。
差し当たっての優先事項はそんなところだろう。