K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

秋の入口に立ってみて

気づけば下旬も半ばが近く、九月も終わりが見えてきた。すっかり暑さも息を潜めて、秋の訪れを感じる最近の気候は、比較的過ごしやすくて気持ちがいい。
一年のうちでは最も短い、快適な時季。春も似たようなものではあるけれど、秋は花粉症に悩まされることはないし、何より明るい場所から暗闇に向かっていく感じがして、それを私は好ましく思っている。
太陽の光は苦手だ。ずっと深更の果てに生き続けられたらいいのに。なんて考えてしまうのは、少し後ろ向きすぎるだろうか。

 

明るさとは別の話で、気温に関しては暖かいほうが好きだ。痩せていて寒さを凌げるだけの皮下脂肪がないせいか、真冬になると極端に活動レベルが低下する。指先まで冷えきってしまい、体力が奪われる。気温のせいで手足が動かなくなるというのは、春から秋までには起こり得ないことだ。私は寒空の下ではまともに生きていけない。
そういうわけで、夏か冬を選べと言われたら、現実的には夏を選ぶしかないのだけれど、雰囲気としては冬のほうが好き、ということになる。その中間である秋は、だから私にとって最高の季節だ。

一昨日は久しぶりに遊び、そして疲れた。体力が回復するまでにはおよそ一日半もかかってしまい、今なお身体が少し怠い。腕や脚の筋肉痛は腹筋と違って、一日やそこらでは治らないのだ。日中の半分くらいを睡眠に充てていたから、時間の経過があっという間だった。
あと何回か寝起きを繰り返せば十月になってしまうのだと思うと、うかうかしていられない。そろそろ腰を上げて行動に移さなければ、と思い始める。
次に誰かに会うとしたら、きっと年末になるだろう。この先ずっと、彼らとは新年会や忘年会でしか会わなくなるとしたら、とても寂しいことだと思うけれど、社会という人間を拘束する巨大な機関がある限り、仕方ないことなのだろう。特に働き盛りの年齢なのだから、なおさらだ。
まぁ誰にも誘われないことをボソッと愚痴のようにこぼしてみたから、もしかしたら十一月くらいに連絡があるかもしれないけれど、基本的に私は他人に期待しない。しばらくは、また一人で頑張り、一人で息抜きをするしかないのだ。

思い返してみると、九月はなかなかに充実していた気がする。見たかったアニメ作品に手を出して好奇心を満たしていく。それが月初の目標であったから、まずは一つ達成としてもよいのではないか。
流石に、気になっていた作品の数が多すぎるため、全部というわけではない。ただ、優先度の高い数作品を見終わった今、わりと満腹感というか、しばらくアニメは置いておいてもよいかなという気分になっている。どちらかと言うと、今度は積んである小説の消化にシフトしたい気持ちが強い。

通勤しなくなり電車に乗らなくなったから、通勤時間に割り当てていた読書という習慣が、生活の中からすっぽりと抜け落ちた。運動不足などのデメリットと同様に、これは一種の損失みたいなものだから、できることなら取り戻したいという想いがある。
運動は、先日から筋トレを始めた。昨日から、身体をほぐすためのストレッチも開始した。まだまだ筋肉は全然足りなくて、身体はとても硬いけれど、それほど大きな負担とならずに習慣化していけそうな気がしている。少なくとも、こうやって毎日1,000字以上の日記を書くよりは、ずっと楽なのだ。続けられない理由がない。
一方で、読書は時間がかかる。集中力も必要だし、運動と比べても眠気や体力との相関性が強い。アニメを見るのとは違って受動的ではいられないから、通勤という強制的な力が働かない状況では物語の魅力に引っ張ってもらう以外では、なかなか進まないのが現実だ。好きだけれど楽ではない。いつからか、私は読書が苦手な読書家になっていた。長時間の読書を継続する体力は、どうやったら身に着けることができるのだろう。
昨夜、あまりにも崩壊した生活リズムを矯正することを諦めて、布団に入ったまま電子書籍を開いた。眠くなるまで読んでみようと、些細なきっかけだった。キリがいいところまで読み進めて、いい具合に眠気を感じる頃には、いつの間にか外は明るくなりかけていた。これならば、読める。確信ではないけれど、それに近い感覚。眠れない夜に眠くなるまで読むことを習慣化すれば、以前とさほど変わらないペースで進められそうだと思った。なんたって、私は寝つきが悪いのだ。

 

朝の時間に縛られず、一日にやることをすべて自分で決める。その事実に対して、ときおり猛烈な不安を覚えることがある。
何をやっているんだろう。何がしたいんだろう。
もちろん、すべきことは頭の中にいくつも並んでいて、それらを一つひとつ消化していけばいいだけだ。けれど、あまりに自由すぎても窮屈というか、却って不自由というか……いつだったか学校の先生が言っていたのだ。本当の不自由とは、自由であることだ、と。
その不安を乗り越えた先に、私という人間の本質が待っているような気がする。ここまで来たら、それを見ないわけにはいかない。この九月と、そして十月は、不自由極まる自由な世界の中で、私が一歩ずつ進んでいくための訓練なのだろう。
今はただ、目の前のことに集中することのできる時間感覚と、それに耐えうる肉体の獲得に意識を傾けたい。