K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

情報と孤独の狭間

こういう社会と孤独な生活環境なので、私にとっての主な情報源はTwitterか5ch……なのだが、正直に言えばそれだけでも十分すぎるくらいに情報が多い。
情報疲れというやつかもしれない。常に流れ込んでくる数多の情報に、私の神経はすっかりと耗弱してしまった。

 

眠ればいくらか楽になるとはいえ、もはやPCやスマホは生きるために欠かせないアイテムなので、起きていたら情報に触れないなんてことは不可能だ。
疲れるのなら、しばらく使用を控えればいいという考えもあるかもしれない。しかし、その選択肢は実のところあってないようなもので、現実的ではない。
少し前に、数日だけ情報デバイスにアクセスできない状況に身を置いたことがあるけれど、かなりの苦痛を覚えたの。暇であるというだけでなく、ふと気になった物事を知る手段が失われるのだから当然の話で、この素晴らしい時代に慣れてしまった現代人から情報を奪うというのは、非常に恐ろしいことなのだ。たとえ情報に触れることが、別の苦痛をもたらしているのだとしても。

それでも、誰かと会話する機会に恵まれていれば、インターネットに依存することはないのだろう。
人間というのは高密度の情報体であるから、目の前に一人いるだけでも自らに対する十分な刺激となり得る。
もっとも、相手や状況が自分にとって好ましいものでなければ逆効果で、たとえば飲み会中にスマホを弄るような事態にも陥りかねないけれど、プライベートの真っ当な人間関係というのは得てして理想的なものだと思っている。特に成人して以降も続いていくような間柄は、願っても簡単に手に入るものではない。これまでの人生の積み重ねから生まれているわけだから、非常に尊いものだ。
そういう触れ合いが頻繁にあれば、きっと心が徐々に暗く染まっていく可能性は低いのだろう。親しい人間との適度なコミュニケーションは、精神を浄化する。

私には友達がいない……わけではないのだが、一般的な人間の水準には遠く及ばない程度にしか、そういう付き合いはない。
もちろん、こういう世の中になったからこそ頻度の低下が起こっているわけだけれど、そうでなくても月に一度、誰かに会えれば多いほうだった。今や年に数回あればいいというくらいなので、人付き合いという観点で人間を評価するなら、私はひたすら最底辺を彷徨うことしかできない程度に深刻であると言える。
かつて親しかった人間には他にもっと親しい人間がいて、友人知人と会う機会が限られる現状は、より慣れた相手とだけ関わるようになる。コミュニケーションの輪がどんどん狭くなっていく悲しき現実に、元から優先度の低い人間はすっかりと他人との交流を失ってしまうのだ。

誰かに会えないから、情報の欠乏を避けるためにインターネットを利用する。そこでは私が望めないやり取りが次々と視界に入ってきて、私の精神を削っていく。
目を逸らし、他のコンテンツにのめり込もうとするけれど、際限のない情報量にいつの間にか頭で処理が追いつかなくなる。
これは言うなれば、腹は減るのに食えば確実に腹を下して、少しずつ痩せ細っていくような地獄かもしれない。
いずれまともに声も出せなくなり、頭の回転は鈍り、人間力は地に落ちて、どうしようもなくなるのだろう……現状が続けば。
どうにかして状況を変えたいと思いつつも、今の私にできることと言えば、きっかけを作るための力を付ける努力を継続することだけなのだ。
いつ尽きるかわからない体力と精神力をささやかな頼りとして、倒れずに済む道を模索する日々……あと半年か、一年後か、まったく見通しは立たないけれど、我慢するしかないのだろうか。

という感じで、今日はマイナス思考が先行して文章が生み出されていったけれど、別に鬱になったとか、気が病んでいるというわけではない。
ただ、自分の状況に対して、こういう見方もあるよね、と冷静になってみただけの話なのだ。
それはそれとして、楽しいことはたくさんあるし、明るい未来に向かって取り組むべき課題に悩んでいるわけでもないから、思考整理が済んだら余計なことに惑わされずに生きていくだけ。人と関わる要素が皆無の生活が身体に悪いのは確かなので、改善したいというのは本音ではあるが、今は機が熟すまで耐えるのみ。