K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

趣味を捨てる必要

昨年の後半から生活環境を変化させてきて、一年前とはまるで異なる生き方をしている私ではあるのだが、それでは変わった環境に見合った動きができているかと問われれば、首を縦に振りづらい現実がある。
程度の差はあれ、何事においても新しくスタートを切るときには今後の大まかな流れというものを想像というか、想定というか、頭の中に想い描くのが普通だと思うのだが、半年以上前の私も漠然とではあるが考えがあった。
当時の日記にも、明言はしていなかったと思うけれど、なんとなくそれっぽい表現を残していた気がする。

 

さて、それでは過去に立てたプランを現在どの程度まで達成できているのか……まぁこんな日記を書くわけなので当然と言えば当然なのだが、まったく上手くいっていない。
無視できない出来事として、思いもよらぬ話が舞い込んできたり、あるいは考えもしなかった邪魔が入ったりして、ある時点からすっかりと調子が狂ってしまったという事情がある。
けれど、すべての原因を外部に求めるのもおかしな話で、現実に己の身体を動かしているのは私自身なのだから、自らの生活において改めるべき点は少なからずあるだろう。
そんなわけで、いくらか考えてみた結果、なんとなく見えてきた問題点をここに書いておきたい。

現状における私の生き方に関して最も大きな特徴と言えば、「自由」であることに他ならない。時間的、肉体的な制限を、ほとんど受けることがない。基本的には思いのままに予定を動かすことができるし、食事や睡眠のタイミングだっていくらでも調整が可能だ。
これは「普通」の一般人にはないメリットで、だからこそ思い立った瞬間から集中的にエネルギーを注ぐことができる状況を活かして、やりたいことを積極的に進めていきたいという意志が確かにあった。

「自由」というのは当然、「不自由」を内包している。
制限が強ければ強いほど、自分で頭を働かせることも、何をすればいいか迷ったり悩んだりすることもなく、半ば脳死のような状態で特定の作業に没頭することができるからだ。
逆に無限に選択肢が与えられると、却って何もできなくなってしまいがちなのが人間というもので、明確な目的意識が揺らいでいるうちは、道を真っ直ぐに歩くことすら、ままならなくなる。

とはいえ、有り余った時間を永遠に放棄することも難しいので、何かしらの行動によって時間を使うことになる現実が存在する。
私の場合は昔から「やりたいこと」がたくさんあったし、今でも増え続けているので、思いついたそばから取り組んでみて、気づけば一日、一日が過ぎているという日々が多いように思う。
そう、やりたいことだらけなのだ。
時間を潰そうと思ったら、いとも簡単に、きっと寿命が尽きるまで続けてしまうだろう。
まさに致命的な問題がここにある。
興味を持ったあらゆる事柄に手を出していったら、いくら時間があっても足りないのだ。そのうち、本当にやりたかったことすら追いつかなくなるほどに、いつの間にか私が「自由」に使える時間は失われていく。

今の世の中は娯楽が多すぎるし、インターネット上にはいくらでも情報が転がっているから、気軽に始めてしまった趣味の一つであっても、その深い沼にハマることは一昔前よりもずっと容易になっている。
迂闊に足を踏み入れてしまったら、気づかない間に、自分の心に占める本当に大切なものの割合がどんどん小さくなっていき……最後には何が残るのかわからない。
ふと思ったのだ。このままでは、何もかも中途半端で何も成し得ない。ただイタズラに時間を浪費するだけで、将来に残せるのは後悔の気持ちだけになってしまうのではないか。


毎日、必ず続けているこの日記は、今のところ最も効率的に時間を使えている趣味と言ってもいい。
消費時間はその日の調子と文字数に比例するけれど、マンネリ化しないルーティーンとしては、昨年の夏頃と比べたらこの上なく洗練されてきた。
一日の生活時間を大きく圧迫することもなく、自然な流れで続けられているのは当初の理想に近く、だからこれだけは現状において特に手を加える必要がないように思う。

一方で、その他の趣味については非常に、なんというか、ガタガタという表現がふさわしいくらいに質が低くなってしまっている。頻度もまちまちで、振り返ると反省点しか浮かばない程度に、論じるに値しない様相を呈している。
趣味や娯楽というのは、受動的なものと能動的なものに分かれると考えていて、たとえばアニメを見たり小説を読んだりするのは前者、ゲームをプレイしたり絵を描いたりするのは後者に近いものと思われる。
もちろん、作品に対する分析をしようとすれば能動的な働きになるし、知識をつける勉強と捉えるなら受動的な意味合いを持つ場合もある。
最近はどちらもイマイチと言っていいのだけれど、中でも能動的な趣味についてはすこぶる低調気味だ。理由は簡単で、能動的に動くのは大きくエネルギーを消耗するからだ。

二月の終わり頃までは、まだ元気があったのだけれど、三月の半ばくらいからは下降する一方で、今は地を這っているイメージになるだろうか。
本当は四月の前半からロケットスタートの見込みであったのだけれど、実のところそれはモチベーションを外部に委ねていたことによる期待だった。残念ながら約束が守られなかったことにより、せっかく溜めていた燃料は賞味期限切れになってしまったらしい。
モチベーションという観点では、今のところは再浮上の時期を探りながらの停滞が続いていて、いまだ光明が見えない。結局は自分から動いて奮起しないことには、なかなか軌道修正するのは難しいのではないかと考えるに至った。

それでは、どのように課題を解決するかという話になるが……まぁ普通に考えて、時間不足の問題を解消するのが、すべての方向性を決定づけることになると思った。
つまり、あれもこれも気になって仕方ない、という多趣味の性質を頑張って抑えるのだ。
趣味が多すぎる。だったら減らせばいい。
広く浅くではなく、とにかく限られたものを深く。狭くする必要はないけれど、大事なものを優先するために、時には見ないようにすることも肝要だ。
言わば趣味の断捨離ということになる。時間が足りないのだから仕方ない。他に道はない。

具体的な手順はこれから考えるけれど、とりあえず大雑把な方針を決めるとしたら、何も目的がない状態でTwitterYouTubeなどの情報に溢れたサイトを開くことを禁止するのが一番だろう。
何かを知りたいとか、決まった時間に情報収集のために活用するのは悪くない。無目的に、ただ目についた情報を渡り歩いていくのが忌むべき行為なのだ。
加えて、義務感に任せてゲームを遊ばないことも肝に銘じておきたい。今はウマ娘を楽しく遊んでいる段階ではあるけれど、ゲームの性質上、拘束時間がそれなりに長い。開始当初の無限に熱中できる勢いは落ち着いてきているので、真にやりたいことに取り組むためには、本当に手が空いたタイミングでちょこちょこ進める程度に留めておくべきだ。

例外として個別に考えなければならない行動は、食事や買い出し、あるいは運動など、健康維持のために必須ではあるけれど、後回しにしても急に死ぬわけではないという営みだ。
週に何度も面倒に感じることがあるにもかかわらず、一生続く悩みの種であり、しかも能動的な趣味と同様に精神エネルギーを莫大に消費するという特徴を持つ。
エネルギーを使う分だけ、始めてしまえば比較的ノリノリになれるのだが、始めるまでが長いというやつで、怠惰な私は思い立ったとしても半分くらいの確率で重い腰を上げられない。
人間としてどうかと思う。

とりあえずは、無目的の時間浪費行動を抑制したことで生まれる可処分時間がどれくらいなのかを記録してみて、優先度の高い趣味をリストアップした上で時間を割り当てる。
リストアップと言っても二つか三つくらいのものなので、慌ただしく作業に追われるわけではない。隙間時間は、慣れてきたらいくらでも作れるだろう。
毎日の決まった時間に、あるいは特定の曜日に、これをする、という風に時間の使い方を暫定的に設定する。二週間ほど回してみて、引っかかるところがあれば少しずつ調整していく。
……こんなところだろうか。

日記という日課が上手く続いているのは、それが日課として私の身体に刻まれたからだ。
どうにかして習慣化すれば身体が覚えてくれるため、多少は面倒な作業でも始める前に使うエネルギーが少なくて済む。
全部をルーティーン化してしまうのは昨年末の失敗から学んでいるので、今回は、これだけは欠かせない、という特定の行動のみを絶対的タスクとして定める。

まぁしかし、寝坊をするとオールリセットとなるから、まずは規則正しい睡眠を始めるのが先決か。
あんまり固執しすぎても義務感にとらわれて好ましくないし、ゆるっとこなせる具合に時間の使い方を覚えなければならない。