K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

ずっと同じことをしている

軽く人生を振り返ってみて印象的なのは、大学時代のサークルという空間だ。
印象的というよりは、明るく見える部分がほとんどそれしかないというくらいに、私の人生は一般的なイベントを通過してきていない。
ことごとく人との関わりを避けてきた反動か、今になって孤独でない状態への憧憬が呪いとして、時おり私の心を蝕んでくるのだ。

 

少なくとも小学生時代は普通の範疇を出ることは滅多になかっただろうし、記憶も非常に曖昧なので参考にすらならないから除外するとして、中学入学以降の足跡を辿ってみることにする。

私は私立の中高一貫校に入学した。共学だ。
取り立てて進学校というわけではなかったけれど、地元の公立校に比べて自由な校風は魅了的で、生徒の自主性を重んじるという点が特徴的だった。
この選択自体が間違いだったとは決して思わないし、むしろ公立に通っていたら今の私はいなかったと考えると、ややゾッとする。

中一の初めに、とある部活に所属した。
興味本位で始めたそれは、最初こそ楽しかったのだけれど、徐々に自分には合わないと思うようになる。単純に、部活に時間と体力を費やすのが億劫になってきたこともあるが、人間関係が上手く構築できていなかったのだろう。部活メンバーと一緒にいて楽しいと感じられる機会が、一人でいる時を上回ることがなかった。
夏休みの前後どちらだったか忘れたが、その年の夏に退部届を出して私の部活生活は終焉した。

それからの中学生活は、言ってみれば虚無だ。
曜日によって一緒に帰る人がいたりいなかったりしたが、まぁ中学時代はまだ各々の価値観によって関係性がハッキリと隔てられるようなものではなく、それは精神が成熟していないからこそ可能だった付き合いとも言えるだろう。
周りの誰とも、なんとなくは親しみを持って接するけれど、生涯の親友みたいな間柄は絶対に構築できない。中三に至るまでに少しずつ、休み時間や休日に遊ぶ相手は減っていったし、他の多くの人は部活に入っていたから私以外にもコミュニケーションの対象はいて、結局のところ私は一人の時間が増えていった。
生徒として見れば、ほとんどすべての授業に真面目に出席していた模範生で、中二の途中で一時的に成績を落としたこともあったけれど、中三からは塾に通い始めてそれも改善した。
ちょうど同じ頃、深夜に放送されているアニメにドハマりして、もう二次元への道から逃れられなくなる。当時はYouTubeに違法アップロードされたアニメが大量に上がっていたから、暇潰しには困らなかった。
学校で授業を受けて、特に誰と付き合うこともなく放課後は家に直帰する日々。帰宅後は夕食まで昼寝をするかアニメを見て、夜にもアニメを見てから眠る毎日がそこにあった。

 

なんの苦労もなく高校へと進んだ私の生活は、しかしながら特に変化することはなかった。
午後まで授業を受けて、それから部活動に勤しむなんて体力はなかったし、そもそも興味を惹かれる部活が見つからなかった。
毎週ジャンプを読み、アニメを見て、あとは成績を悪くしないように勉強をする。この一行で、高校生活の九割は説明ができていると思う。

唯一と言ってもいいくらい、奇跡的に気の合う人間が同学年に存在した。今では連絡先もわからず、はたして友人だったのかすら定かではないその人は、いわゆる変人だった。
周囲から奇異の目を向けられて、しかしそれを大して気にしない。
一日の授業が終わると、いつも決まった場所に集まり、他愛ない会話をしながら駅まで歩く。それだけのことだったけれど、思い返すとあれが高校生活における一番の「青春」だったかもしれない。
学園祭を盛り上げて楽しんだり、帰りに寄り道してマックでダベったり、ゲーセンに寄ったり、授業をサボって遊んだり、そういった経験をするシーンは一切なかった。もちろん恋愛エピソードも皆無で、共学だったのに事務的な会話以外には異性との関わりを持つことはなく、そしてそれは今でも続いている。
その上、高校には修学旅行がなかったから、多くの学園アニメでテンプレのように描写される青春イベントが、私には実感のない都市伝説でしかなかったのだ。

一度、その人の家に招待されたことがあった。よく覚えている。目的はなんだっただろうか。ゲームを一緒にやろうとか、そういう理由だった気がするけれど、正直どうでもいい。
忘れられないのは、家でその人の母に言われた言葉だ。
いつも遊んでくれて、ありがとう。
驚いた。私は、そんなつもりなんてなかったのだから。善意で付き合ってやっていると思われるなんて、確かに一見すると模範生の私が変人の相手をしているように映り、それは奇妙な構図なのかもしれないが、とんでもない。
私は、たまたま偶然にも話が合う相手が見つかったから、毎日の下校時間をあの人との付き合いに捧げていたのだ。それが最も気楽で、好きなことについて際限なく語れる関係性は知的好奇心を満たしてくれていた。
だから、ひとたび周囲からの視線について考えてしまうと、やや複雑な心境にならざるを得なかった。そんなつもりは、ないのに。

高校では「学校のテスト」に対しては強かった。ありがちな進学校のように成績上位者として名前が貼り出されることはなかったけれど、主に教師間で「できるやつ」という認識が共有され、「頭がいい」という噂が生徒の間にも少しずつ広がることになる。
別に他人からどう思われようと、私は目の前にある課題に向き合うだけだったから、それをきっかけとして特定の人間関係が新しく生まれるというわけではなかったし、相変わらず授業が終わればさっさと帰宅して、勉強以外の時間はゲームやマンガやアニメに熱中しているただのオタクだった。
それ以外の刺激を知らなかったから、退屈だと思うこともなく、私なりに充実感は覚えていたのだろう。あっという間に高校生活も終わりが近づいてくる。

一方で受験勉強は捗らなかった。ノウハウがない。主体的に取り組める範囲には限界があった。学校の偏差値からすると高望みは難しく、モチベーションは上がらない。そもそも大学受験について考えだしたのが高三の春からで、スタートが遅すぎた。
結果、現役時に受けた大学は全滅し、半ば予定調和的に浪人生活へと突入することになる。
経験できなかった青春について振り返ったり後悔したりする暇もなく、私は次の選択を余儀なくされたのだ。

 

とりあえず予備校に入った。
目指す大学は、どうせならと可能性がありそうな範囲で最難関を選んだ。
予備校でも基本的なスタンスは変わらず、真面目に授業を受けて課題を消化する日々が続き、クラスの他の連中と関わろうとはしなかった。
勉強し、家に帰ってきて勉強し、一日の終わりにアニメを見て寝る。そのルーティーンを半年以上も続けられたのは、今から思うと凄かった。当時は意識していなかったけれど、私にしては相当に努力して頑張っていたのだ。大きな目標があって、そこに至るまでの課題があって、全部が数字によって評価される。わかりやすいからこそ、集中すべきポイントが明確だった。
現在も似たような状況ではあるのだが、浪人時代よりも緩いペースでもがいているのは、わかりやすい数字が目に入ってこないからかもしれない。感覚的に判断しなければならないから、くっきりとした道筋が見えてこないのだ。

予備校といえば、個性的な講師を何人か覚えている。それなりに高齢であったから、もう引退しているかもしれないけれど、あの人たちのおかげで勉強には退屈しなかった。
新しい発見ばかりで、受験勉強をしながら知的好奇心を満たすことができていたのだ。だから、私は成功した。
基本的に誰とも関わりを持たず、黙々と勉強を続ける毎日を経て、志望校に合格することができた。

 

さて、ここからが重要だ。
私は中高の六年間で、青春を味わう機会をことごとく逸してきた。同じようにやっていたら、貴重な四年間も一瞬で過ぎ去ってしまうだろう。
サークルには入ったほうがいいという親のアドバイスを頼りに、いくつか気になったサークルの新歓に参加してみる。雰囲気が合わないところは秒で却下し、悪くなさそうなところには仮入会してみた。
この雰囲気というのが、判断を違える罠だったのではないかと、今では思わないでもない。というのも、自分に合いそうにない世界というのは、言い換えれば自分が経験してこなかったことに触れるチャンスにもなるからだ。それを条件反射で候補から省いてしまった当時の私は確実に臆病であったし、他者と関わらない浪人生活明けということもあって、明らかにコミュ障具合がこれまでの人生のどの段階よりも突き抜けていた。
まぁ無理もないというか、そのような判断を下すのは仕方ない面もあったのだが、仮にもう一度やり直せるのなら、もっとたくさんのコミュニティを知りたいと思えるだけに、もったいなかったという想いは強い。
結果的に、入ったうちの一つが非常に居心地のよい場所で、卒業まで在籍することになる。あのサークルでの出会いと経験は、長い学生時代を見渡してもひときわ輝いているし、もはやその思い出にしか希望を見出だせないレベルですらある。

サークル外における大学生としての私の姿は、ありえないほどつまらないものだった。
授業が終わったら、すぐに家に帰る。高校までと何も変わっていない。
一緒に授業を受ける友人も、授業後や休日に遊ぶ友人もいない。友人を作る機会は至るところに転がっていただろうに、私は作れなかったし、卒業するまで作り方がわからないままだった。
アルバイトもせず、帰ってすることと言えばゲームかアニメ。これも高校までと変わりなく、むしろ個人のPCを買い与えられたせいで、より一層その傾向が強くなっていった。

学年が上がりゼミ活動が始まれば、多少の人間関係構築やコミュニケーションといったものが学生生活に組み込まれることになったけれど、あまりにも慣れないことだったから楽しい時間よりもストレスを感じることのほうが多かった。
根本的に、人間関係不適合者なのかもしれない。少人数なら問題ないが、一定の人数を超えた集団の中にいると、何もできなくなる。
趣味レベルで話の合う人がいればストレスは緩和されるけれど、ゼミではそれも望めなかったから、堪え忍ぶ期間が続いた。
なんとか卒業できたのは、メンバーの人柄が優れていたからに他ならない。私を受け入れてくれた。それが、とにかくありがたかった。

 

大学を卒業して社会人となり、某大企業に入った私は、そこでも同じように振る舞っていた。
仕事上、必要とされる以上の関わりは決して持たない。同期とも仲良くできなかったし、配属された職場でも雑談に参加することはなく、徹底的に寡黙という印象を与えることとなった。
残業もほとんどせず、まだ周りがせっせと働いている中で「お先に失礼します」と言うのが習慣だった。私が帰った後に何を言われていたのか、想像するのは楽しくて怖い。
私の会社員としての働き自体は非常に良好で、物覚えも悪くなかったから、仕事に対する評価は同期中で最大のものを貰った。
けれど、雀の涙ほどしかない昇給額のプラス査定に私は大して喜べなかったし、このまま働き続けた結果どうなるかは容易に想像できてしまって、会社に時間と労働力を提供することに少しずつ意味を感じなくなっていった。

辞める決断をしてからは時間の経過があっという間で、まったく見通しの立たない人生に飛び込むことになるというのに、私は生き生きとし始めた。
会社での人間関係なんて、所詮はこんなもの。仕事だけの付き合い。だからプライベートを見せる必要もメリットもない。そんな考えだったから勝手に気持ちを燻らせていったのかもしれないけれど、他者に対して積極的に向かっていくということを長い学生時代に覚えることができなかったから、今さらそのスタンスを改めるなんて難易度が高すぎる。
楽なほう、楽なほうへと逃げた末、私は私自身に追い詰められ、人生の大きな選択を迫られた。

そして、今に至る。

 

……なんだかんだで初の5,000字超え。時速3,500字近いペースなので悪くはない。
まぁこんなに長くなるなんて思っていなかったのだが、多少は抽象化しているにせよ人生について書くのだから、長文化するのは必至であったかもしれない。
それぞれの時代について、ちょこちょこと過去の日記に登場してきた内容もあるけれど、流れとしてまとめるとこのようになった。

どうして書こうと思ったのかは、ただの思いつきと気まぐれという風に表現する以外にはないのだが、それにしたってあまりにも同じことの繰り返しで、まるで成長していないではないかと反省したのが、一番の大きな理由になると思う。
別に人生の歩みを後悔しているとか、完全にやり直したいとか、そういうネガティブな気持ちを持っているわけではないのだ。ただ、今の私が持っていないことや、できていないことについて考えていった時、その原因を追求していくうちに、思考は自然と過去へと遡った。そして、もし人生に失敗しているのだとしたら……見えてきたのは、私の消極的な姿勢ばかりだった。

今後そういう岐路が運良く訪れるか知らないけれど、もしチャンスであると思った際には、今回の回顧を少しでも参考にできたらいいなぁと思う。