K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

外に出て予定を済ませて

本格的に雨が降るのは随分と久しぶりのような気がするけれど、ただ単に引きこもりすぎて天気を知る日が少ないだけだから、気のせいである可能性が高い。
この季節に降られると困るのは、外出時に肌が感じる寒さが強化されるところだろう。湿度の上昇は乾燥肌気味だから助かる面もあるとはいえ、私は寒さが弱点だ。何も予定がなければ、夕方まで布団の中から出られずにいたかもしれない。

 

幸いにも、出かける頃には雨が止んでいた。
屋根や電線から滴り落ちる雨水によって上方への注意力が要求される環境ではあったけれど、もともと雨天だと思って外に出たにもかかわらず傘を差さずに済んだのは、相対的に幸福度の向上効果があるような、ないような……少なくともマイナスにはなっていないから、今日は悪い日ではないように感じた。

目的地は昨日の日記にも書いたけれど、複数の場所だ。歯医者で治療の続きをしてもらい、それから駅前の銀行へと向かう。溜まっていた分の記帳を終わらせたら、自宅を挟んで反対側のスーパーに足を運ぶ。
駅の近くにも安いスーパーはある。しかし、品揃えの関係と、運動不足解消のための散歩を兼ねて、多少の時間と体力を費やしてもいいと思ったのだ。
今回の治療は短時間で済む内容だったし、記帳も買い物もそれほど手間はかからない。半分くらいは移動時間となったが、だいたい一時間程度ですべての用事を終えて帰宅することができた。

数日前の帰省を除けば先週の月曜にも遠出をしていたけれど、あの日と比べたら疲労感はずっとマシというものだ。半日も外にいたら翌日はまともに動けないくらいに疲弊してしまうが、これくらいなら毎日でも大丈夫な感覚すらある。
まぁこんなことを考えなければならないほど体力が減少している現実を鑑みるに、自らの肉体が幼少期や学生の頃に想像していた「大人」の像と乖離しすぎていることを、流石に自覚しなければならない。

 

そもそも私の成長過程は、平均的なそれと比べると極端に緩やかだった。短期間に急激に身長が伸びるとか、身体の一部分が著しく成長するとか、そういった目に見えて変化を知る時期なんて記憶になくて、覚えているのは小学生から高校生の間に毎年毎年、安定した数値の上昇だけだった。
肉体的変化においては平均に対してほとんど下回る人生だったし、大学生の頃にいつの間にか平均の範囲内に届いていることに気づいたのは重大な発見だったけれど、その頃には自らも周囲も成長期を終えているわけで、結局のところ平均を上回ることなんてないのだ。

身長だけなら、それでもいい。
ただ、体重を包含した「体力」という考え方をすると、今の私は相対的に見て人生の中で最底辺にいると言っていい。
生まれつきの体質と、長年の生き方で習慣化した食生活、食べ物や飲み物に対する嗜好、運動量や睡眠時間……などなど、多様な原因が絡み合って、私の痩せた身体という結論を生み出している。

同年代の人間は、そろそろ体重の増加を気にするようになる年齢だ。私は体重が増えないことに悩み、どうすれば維持以上の状態を保てるのか明確な答えが出せずにいる。
振り返ってみると、数年前は平気だった身体の使い方が上手くできなくなっていることに気づく。一日ならともかく、連日となると体力が尽きてしまう。動けないから余計に肉は削がれていき、ますますスリムな外見を尖らせていくことになる。
こういう話をすると、無責任に羨ましがる人間は多い。私にとっては、食べたらその分だけ肉体になる体質のほうが、よほど羨ましいというのに……この感覚はおそらく相互理解が難しいから、いくら話そうと平行線を辿ることになるだろう。

体質にしても性格に起因する生き方にしても、つくづく一般・平均・平凡といった言葉からは離れている。それ自体の是非は置いておいて、社会というものは基本的に多数派の大衆に向けられてデザインされているものだから、普通の人と違うというのは不便が多い。
でも仕方ないのだ。普通ではいられないのだから。

稀に、ピタリと自分に当てはまる事象を見つけることがある。少しだけ安堵する。
そういう空間や出来事を心から大切にしていけば、たとえ本質が社会に不適合であったとしても、ささやかな幸せくらいは享受できるように思う。