K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

不思議な感情を経験して

昨日は数年ぶりに飛行機を使って遠征を果たした。旅行という気分ではなく、半ば無理やり引っ張ってこられたようなものだから、心理的にはネガティブな……たとえば仕事のような感覚に近いかもしれない。
もちろんプライベートの出来事であって、仕事ではないから金はもらえないし、むしろ散財した上で自由時間を奪われるだけだった。
それでも、今回は引きこもっているわけにはいかない理由があったのだ。無償で自らを捧げることができるもの。人にはそういう存在がある。

 

体力のない私が、睡眠時間を削って朝から夜まで活動した反動は大きい。
昨晩は宿泊場所に到着して布団を見た途端に、身体から力が抜けるような状態に陥った。
壊れた生活リズムが一周して、却って早く眠れるやつ。おかげで今朝は比較的元気な状態で早起きすることができた。
一日で狂った生活を、一日で戻す。大学時代には余裕で成し遂げていた身体への「無理」を久しぶりに達成して、なんだか懐かしい気分になる。

呼び出されたのは、とある催しに出席するため。その本番が本日の午前中に実施された。
会ったことのない人間もたくさん来場していたが、馴染み深い人間もいる。
多くの人は、普通に生きていたら数回は経験することになるような催事であり、現実的な観点から言えば、イベントが発生したら回避は難しい。
「そういうもの」という習わしがある。拒否したら、次に会った時にどんな目で見られるかわからないという恐怖すら、そこはかとなく感じてしまうようなものだ。
人によっては心が乱れ、人によっては無関心に近く、そして普段は会えない人と再会できる数少ない機会でもあるから、会場では様々な想いが交錯する。
私は今回、「メイン」を前にして、それなりに感じるものがあるかと思っていたのだけれど、想像以上に何も感じなかった。無感動に近い。私の人の心は、いったいどうして閉ざしてしまっているのだろう。

決められたプログラムに従って、進行していく。外側から見ていると、いったいなんの意味があるのか意味がわからないような、特別な営みの数々が展開される。
伝統というか、慣習というか、とにかく個人が主観的な感覚に促されて無意味性を訴えても、そこに何かしらの意味を見出す過半数の人間がいる限り、これは永遠に行われ続けるであろう。
眼前で進められる「儀式」に、私は当事者として精神的な参加を果たすよりも、思わず以上のような黙考状態に入ってしまった。

ふと、感情が動いたのは後半、というよりもほとんど終盤に入ってからだった。
胸中から溢れる感情を押し留めることのできない人も、中にはいる。見ていたら、つい感情移入してしまったらしい。
同時に、ようやく現実味のなかった事態が身体に染み渡る感覚があった。そうか、これは。
ぽっかり空いた心の隙間を埋めるように、その不思議な感情が全身を駆け巡った。私はどうやら、目の前の事象に反応する人を見て、間接的に意味を理解したらしかった。確かにこれは、心に溜まった澱を清算するのに必要な出来事に違いない。

そうだ。私だって無関係ではない。周囲にいる他の人と比べたら人生における「それ」の割合が少ないだけで、けれど無視することは決してできない存在のはずだった。
この後に及んで、なかなか当事者という意識は持ちづらい。しかし、まったくの他人事というわけにはいかない。なんとも難儀な立場にあるような気がしている。
いずれは、もっと自分にとって重大な類似イベントが発生するはずだ。その時に、私はどんな感情を心の内側に発生させ、身体の外側に表現するのだろう。想像なんてできないし、できれば考えたくもないことだ。

 

強いて教訓を主張するなら、じわりとあの瞬間に滲み出た過去に覚えのない独特の感情を、当分は忘れないようにしたいということだ。
いざ自身が中心的存在に選ばれた場合に、動揺しないように。落ち着いて、現実を受け入れながら対応できるように。
心の準備が間に合うことなんてレアケースであるとは知りつつも、私が普通に生きていたら絶対に立ち向かわなければならない試練であるがゆえに。

そうそう。たとえば数日後になって、急に遅れて爆発する可能性もある。
年末くらいまでは、心の状態に注視しておこうと思う。