K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

何も感じない

知人から入籍したという連絡が来た。その手のやり取りを個別に行うほど仲が良い相手ではないから、当然これはグループLINE上のメッセージなのだが、それに対する反応は私を除いて一様だった。
「おめでとう」「そのうち会いたいね」といった、取り立てて珍しくもない言葉が並ぶ。しかし私は言葉が出ず、既読無視してしまう。
まだ未婚のメンバーが過半数を占める中で、一人また一人と人生のコマを進めていく。自らの年齢や立場を改めて認識するという人は、きっと少なくないのだろう。

 

こういう情勢だから大人数での集まりは難しく、式も未定らしい。それぞれ少人数で会うことはあるのかもしれないけれど、私自身はグループメンバーの大半とは二年以上も顔を合わせていない。
感染症の流行さえなければ定期的に会う関係性がどこかにあったかもしれないと思うと、少し惜しいような気もするけれど、一方で半ば縁が断たれた現状を経験して見えてきたこともある。
かつて同類や仲間だと感じていた人間が、実はまったく異なる性質に従って生きているのだと気づいた時に、ふと心の中に芽生えていたはずの友人意識が霧散したことを実感した。
そうか、そうなのか。結局、私は本当の意味で心を開けてはいなかったのだ。

世の中には二種類の人間がいる。
ちなみに、こういう表現をした時の「種類」が指すものは、極めて限定的なジャンルやカテゴリーにおける区分に過ぎないわけだが、ここでは私から見た他人を簡易に判断する際の基準ということにしておこう。
一方は、私と近しい性質を持っていて会話すればするほど互いの価値観を認め合うことができる人間であり、もう一方は関係が深まるほど不信感が募り本質的な部分で相互理解が難しい人間だ。十中八九、出会う他者が後者に分類されるから私は社会に向いていないのだけれど……それはさておき、今回の連絡者と私は相性が良いわけではなかった。

学生時代、同じ立場で物事を考え、目の前の出来事に向き合っていた頃には、あまり意識することはなかった。当時は表面的にせよ友好的な間柄を構築できていたから、ネガティブな感情は場を楽しむにあたって余計だったのだ。
けれど、大学を卒業してから会う回数が減ると、途端に私の対人評価は大きく変動するようになる。深層意識で捉えていたはずの相性観とでも言うべき判断基準が顕在化して、付き合い方に影響するようになったのだ。
簡単に言うと、もともと好感を抱いていた相手に対しては一層の好意とリスペクトを、翻って懐疑的な見方があった相手に対しては心理的に距離を置くようなイメージでコミュニケーションが控えめになっていった。
ただでさえ内向的で、家族以外の人間と会うことなんて滅多にないというのに、数少ない再会の機会に消極的あるいは冷淡な対応しか取れないというのは、非常に物悲しい。決して仲が悪いわけではない。喧嘩なんてしたこともない。しかしながら、相性が合わないと理解してしまったのだから、以前のように無邪気に交流しようと思えないのも仕方ないことなのだ。
はたして表現が正しいのか微妙なところではあるが、これは疎遠と言う他にないだろう。

 

以前にどこからか情報が入ってきて、なんとなく察していた部分があるからか知らないが、入籍の報せを受けて一切の感動もなかったのが我ながら不思議だった。驚きもないし、祝いたいという気持ちもない。
形だけでもメッセージを返してやるべきなのかもしれない。スルーしたまま放置するなんて、失礼かもしれない。ただ、本当に心が動かなかったのだ。
こうして日記にするだけの原動力にはなっているから、まったく心が動いていないというのは嘘になりそうだが、残念ながら日記のネタにしようという以外の反応を示すことは難しい。

同じような年齢で、向こうは異性との人間関係を作り上げることに精を出し、こちらはまるで無関心なのだから、呆れたものだ。
とはいえ、それを悪いともコンプレックスとも考えていないあたりが現代の若者らしい歪み方をしていて、きっと普遍的な価値観からすれば相当に改善が困難な手強い異常者という烙印を押されることになるのだろう。
価値観は人それぞれだから、別に何が正しいというわけではない。ただ、そういう建前は念頭に置きつつも、なんだかんだ他のグループメンバーは感化されて、いわゆる人生の「充実」に向けて頑張ろうなどと考えるのだろうと思うと、そこはかとない寂しさを覚える。