K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

コスパの良い人間

自慢というより嘆きに近い話なのだが、私は人間としてのコストパフォーマンスに優れている。
体重が軽いから消費エネルギーが少なく、また食への関心に乏しく食べないことが多いため、一般人と比較して苦労せず食費を安く抑えられる。
出不精だから外出機会は週に一度ほどで、遠出なんて滅多にしないから行楽費や交通費も基本的にかからない。
金のかかる趣味は持たず、それなりの初期投資で数週間から数年単位で楽しめてしまうものだから、まず平凡な支出モデルが当てはまることはない。

 

この性質は昔からのものだ。成人以降に独特の嗜好傾向が出来上がったわけではないし、急激なダイエットの影響で痩せたというわけでもない。
幼少期から、あまり物を欲しがらない子供だった。あまり食べない貧弱な身体だった。
たとえば一つのゲームを買ってもらったら、それだけで数か月は暇を潰せる。自ら菓子類を買うことはなく、親が用意する三食以外は口にしない。
こうして書いてみると極端にも思えてくるけれど、事実として金のかからない人間なのだ。それは実家を出た今でも変わらない。

同世代の人間が熱中したり悩んだりする人生のイベントとして、どうやら「恋愛」というものがあるらしいが、それについても無頓着だ。一切の興味がない。
そもそも人を好きになるということが、よくわからない。親に愛されて育ったから家族愛は理解できるけれど、まったく出自の異なる異性に好意を寄せるという感覚が、いまいち馴染みがない。
友人としての好意なら経験があるけれど、恋愛とは別の文脈でしか発生しないだろう。私には縁がない。
そういうわけで、いわゆる交際費というものを意識したことがない。せいぜい、たまに友人と会う際の交通費と食費くらいのもので、頻度が少なすぎるため、わざわざ計算するほどの額にもならないのだ。

酒を飲まない。タバコを吸わない。
どうして、身体に負担のかかるものを自らの体内に取り込む必要があるのだろう。かつて飲み会では飲酒をすることもあったけれど、体質的にアルコールへの耐性が低いため、十中八九その翌日は体調を著しく崩すことになる。
飲んだところで気持ち良さなんて感じることはなく、高確率で頭痛が発生する。人付き合い以外で、飲む理由なんてない。当然、対人接触の可能性がほとんどゼロの現在は、酒について考えることすらない。
最後に飲酒をしたのは、確か一昨年の秋頃だった気がする。
タバコは昔から煙の臭いがどうしても駄目で、特に歩きタバコをしているキチガイは私が唯一、心から死んでほしいと思っている種類の人間だ。

ギャンブルとしては最近、競馬にハマっているけれど、これも金を使わないことが多い。
本当に遊び程度で、使っても3,000円上限という制限を課している。
予想をしてレースを観るだけでも楽しいのだから、負ける確率の高いリスクを背負う意味なんて、あまり感じないのだ。
大事な金が失われるかもしれないという、極限のひりつきに価値を見出している人がいるのはわかるけれど、私は応援している馬が無事に走り一着を取ってくれるかどうかという点だけで、十分に緊張感を味わえる。

 

諸々に金のかかる人間からすれば、私は心底つまらなそうに映るかもしれない。
真の喜びを知らないやつなんだと、憐れみの目を向けられるかもしれない。
しかし私は、そうは思わない。
私は自らが納得し、満足できる楽しいことに時間やエネルギーを注ぐ。たまたま、それが安上がりなだけであって、この「好き」という感情を否定される謂れはどこにもないのだ。
もちろん、逆に言えば金のかかる人間の生き方を貶めるつもりもない。これはただの個性であり、価値観の違いであり、どちらが上でどちらが下とか勝ち負けといったものではないのだから。
他人に迷惑をかけない範囲であれば、何をしたって人生の過ごし方は自由だ。

稀に思うことだが、私の感覚があまりにも世間一般の標準的なものから乖離しすぎているせいで、妙に浮いてしまうというか、心から場に馴染めないと感じることがあった。
もし、もっと金遣いの荒い生き方ができたら、未知の楽しみを経験できたのではないだろうか。まぁそれが現状の「好き」を上回る確証なんてないから、この考えはただの興味本位でしかないのだが。
とはいえ、金というのは言うまでもなく何事においても大事なものだ。金でなんでも手に入るわけではないけれど、金に余裕があれば結果的に喜ばしい選択肢を選びやすくなる。

そういう意味で、生活や趣味のこだわりにおいて支出を減らせる性質を持っているのは、恵まれていると言ってもいいかもしれない。
何から何まで金を費やさないと満足できないという人は、大変だと思った。