K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

合わないのが基本

人と話しているとわかる。
ああ、いったい私はどれだけ普通ではないのだろう。どうしたって、普通にはなれない。
これは、たとえば中二病なんかでありがちな「自分を何か特別な存在だと思い込む」傾向とは異なる話だ。そんな甘いものではない。
私と似たような感覚で生きている人も世の中には少なくないとは思うけれど、しかしどこまで行っても少数派であることに変わりはないだろう。

 

上手く表現するのが難しいが、自他の境界が明確すぎるのだろう。
あまりにも、自分は自分、他人は他人、という区別をしすぎていて、他人の人生に価値を見出だせない。
もちろん、価値がないと言っているわけではない。語弊を生みそうだから補足すると、相手に付属する様々な情報は、特に私の心を満たすわけではないということだ。
目の前にいる人間がどのように生きてきて、今はどんなことを生業にしているのか……ひとたび「そんなことは私の人生に一切の影響を及ぼさない」と認識してしまえば、わざわざ会話のネタとして聞き出そうともしなくなる。
相手からすれば、自らへの関心に乏しい人間と会話することなんて退屈そのものかもしれない。けれど対面の私にとっては、流行のテーマで世間話でもしていたほうが、よほど有意義というものなのだ。

相手の何から何まで、気になったらトコトン聞き出さないと気が済まない性格の人がいる。私とは対照的な彼や彼女が、そういうスタイルで人生を楽しめているのか、わからない。どうでもいいではないか。そんなことを知って、何かが変わるのだろうか。
仮に今後、ある程度の付き合いが発生する人間であれば、人となりに関連する要素は拾い上げておいて損はないだろうし、コミュニケーションを円滑に進めるためのヒントにもなるだろう。
ただ、人生で出会う人間のうち、そこまで深く関わり合える存在というのは稀だ。せいぜい数パーセントの可能性に賭けて、意味のない会話を繰り広げられるほど私は対人性能に長けてはいない。
まぁそんな感じで、客観視してみると露骨にドライな雰囲気を醸し出しているであろう私は、とうとう日常的に連絡を取り合う友人を作ることに失敗したばかりか、独りきりでも問題なく平然と過ごせる凪のようなメンタルを手に入れた。

 

ふと、過去の会話を振り返ると、性格に反して私は話すことが好きなのだと気づいた。
勘違いしてはいけないのだが、これはコミュニケーションが好きというわけではない。ただひたすらに、思ったことや考えたこと、頭の中で組み上げた論理あるいは妄想などなどを、気持ちよくアウトプットできればよい。
それを最も効率的に素早く実行可能なのが他者との会話中というだけであって、本質的に等しい行為は日常的に、こうして日記を通じて実施している。
結局は、一方通行の言語化にしか関心がないのだ。

ノリにノッた私の、暴力的なまでの言葉の濁流を浴びた人間が示す反応は、大きく二つに分かれる。
口には出さないものの、勘弁してくれと言わんばかりに、今後の私との人間関係に消極的になるタイプと、一種の快感を覚えたのか知らないが、年に何度か求めてくるタイプだ。
個人的にはどちらであっても構わないけれど、おかげで残った「知人」はクセのある人間ばかりになった。
「普通」の感覚や神経を最も「一般人」は、いつの間にか周りから消えている。悲しいことに、私は随分と人を選ぶらしい。

当たり前なのかもしれない。
私は私のことが大好きだが、特定の誰かに興味を持ち好意を向けることなんて、まず考えられない。
そんな人間にわざわざ寄ってくる物好きなんて、普通であるはずがないのだ。
あいにく、世の中は普通のありふれた多数派によって、多数派のために構成されている。私はそうしたコミュニティから弾き出された人間だ。必然的に、既存の社会とは合わないような関係性しか構築することができない。

ただでさえ「出会い」なんてものが想定できない生き方をしているというのに、これからの人生で私に適合できる相手が現れることなんて、はたしてあるのだろうか。
今のところ、まったく期待を抱いていない。