K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

登録必須のやつ

今やSNS全盛時代……ということで、年齢層によって親しみのあるSNSは異なるとは思うけれど、下は小学生から上は還暦以上の年寄りまで、何かしらの媒体で他者と繋がっているということが珍しくない。
しかし、そんな世の中から私は完全に取り残されつつある。そもそもリアルで友人が少なく、それでいて顔の見えないネット上では余計に積極性を失い、誰かと関わろうという気力が起きないのだから、すっかり最近のSNS事情に疎くなってしまって仕方ない。
性格的な問題ゆえに、解決策が見つからないのが悩みところだ。

 

Twitterは、まだマシだ。
今でこそ社会的に承認されて、個人のみならず企業が告知などに活用するツールとなっているけれど、基本的には「呟き」が主体となっている世界だから対人コミュニケーションが強制されることはない。
私は特典の個人をフォローしたり、あるいは誰かにフォローされたりして会話をすることはないし、思考のアウトプットは日記で済ませているから日常的にツイートすることはない。
メインの使い方は、検索やトレンドから世の中で起きている出来事の情報収集となっている。

ただ、Twitter以外の、人と人とが関わり合うインターネットソサエティについては無知と言う他ない。
たとえばInstagram、あるいはTikTok、少し古いがFacebookもそうだ。
そこで何が行われているのか、いったい何を目的として人々がエネルギーを注いでいるのか、アカウントすら持たない私にとっては本当に未知の領域で恐ろしくさえ思う。
アカウントを持たずともオープンに閲覧可能なTwitterと比べると、その他のサービスはどうにも……嫌悪感というほどではないが、近寄りがたい感覚を抱いてしまって、加えて「繋がる」相手を持たない私が今になって始める動機付けは何もなく、このままだと知る機会を得ることなく今後の人生を生きていくことになりそうな予感がある。

特に興味がなく、能動的に扱う気がないのであれば構わない……確かにそれはそうなのだが、私が不満に思っているのは、外部サイトからSNSにリンクが貼られている場合なのだ。
一昔前はFacebookだったが、このところInstagramが多い。何かの情報、動画や画像などを読み手に伝えたい時に、その筆者がSNSに誘導することがある。
アカウントを所持していて、日常的にSNSを開く習慣がある「一般人」であれば、少し手間に感じる程度で大した問題にはならないのだろうが、アカウントがなく、そもそもスマホにアプリをインストールすらしていない私が開こうとすると、ログインないし登録を求めるポップアップに悩まされることになる。
PCでも同じことで、それらのコンテンツは登録者でなければ閲覧することができないのだ。

部分的には見ることができるのだが、Twitterで言うところのリプライを表示しようとしたり、画像そのものを開こうとしたりすると、ストップがかかる。
Twitterも、確か「いいね」欄を開くにはアカウントログイン状態であることが必要だった気がするけれど、検索やツイート表示に制限はなかったはずだ。
何気なく中身を知りたいと思ったのに、登録しろと言われる。そのことが、アカウントを持たない私には不愉快で仕方ないし、意地でも登録してやるものかと逆張りしたくなりさえする。

 

余談だが、随分と前にmixiGREEをアクティブに利用していた時期がある。
あの頃は、私も精神が未熟であったがゆえに、インターネットリテラシーに欠ける部分があった。振り返ってみると、一挙手一投足が「黒歴史」になりかねない危うさがあったように思う。

前者については、ログインに必要な情報を完全に喪失してしまったため、もはや中に入ることができない。誰と関わっていたとか、私がどんなプロフィールで存在していたのかすら覚えていない。ひょっとしたら個人情報が放置されているのではないかと、怖くなる。
後者については、ログインすることはできるものの、ほとんど廃墟同然の空間と化している。当時、仲良くしていた人間のほぼ全員が私と同じく非アクティブとなり、今どこで何をしているのか不明なのだ。きっと発信の場をTwitterに移したのだろうとは思うが、そのあたりの連携をしないままコミュニティが廃れていったので、もう関わり合うことはないだろう。
学校卒業後、連絡先を交換していない相手と二度と会うことがないのと同様に、当時のSNSは一期一会というか、刹那的な儚さがあったのだ。

そういう形態に慣れ親しんだ私だからこそ、他者との関係性を活発に維持していないと生きることが許されない近年のインターネットは、どうしようもなく肌に合わない。
極論ではあるかもしれないが、時代における最もポピュラーなアプローチが性格的に不可能なのだから、次の時代に変化するまで私は孤立していく一方だと思っている。

それにしても、似たような話を昨年か一昨年のどこかで書いた気がする。
時間が経っても、私はあの時の私のまま、変わっていないということの証明になった。