K's Graffiti

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肉を食わないと元気が出ない説

私にとって食事とは、単なる生命維持のために必要な作業に過ぎない……ということで、できるだけコストを削減し手間を減らしているのだけれど、この偏った食事への選択が実際のところ身体にどのような影響を及ぼしているのかは、長い時間をかけて判断するしかない。
いつからか覚えていないけれど、私が日頃から抱える慢性的な気怠さ、疲れやすさ、無気力さ……それらの不調が目立つようになったのは、食事の質を著しく低下させるようになってからではなかっただろうか。

 

肉にせよ魚にせよ、わかりやすいたんぱく質の塊というものは、何かと面倒くさい。
火を通して調理しなければならない上に、グラムあたり、カロリーあたりの値段が炭水化物と比べて高いがゆえに、それを日常から省いてしまうのが最もコスパがいいと気づいてしまった。
果たして、肉を食うのは実家に帰省したタイミングのみ、という妙な食生活を続けることになる。別にヴィーガンというわけでもないのに。

ただ、たんぱく質だって身体を維持するのに必要な成分だ。私も十分とは言えないまでも、一応は栄養バランスを考慮している。
たんぱく質は、肉が最も摂取しやすいというだけであって、たとえば主成分が炭水化物の食品にも入っているし、手軽さという意味では豆腐が最強だと考えている。
炭水化物に含まれるたんぱく質が身体にとって必要量を満たすレベルにあるのかどうか定かではないけれど、肉を絶たねばならない状況で最適な食品として考えた場合、豆腐は最も優れている品と言っていいだろう。
そもそもの食事量、摂取カロリーさえ基礎代謝を満たさない日も珍しくない私が、たんぱく質を満足に摂れているとはお世辞にも言えないかもしれないが、この崩れた食生活においては決してたんぱく質を軽視しているわけではないということだけ書いておきたい。

しかしながら、栄養失調を促しかねない食事を長いこと続けていると、身体も適応しようと調子を変化してくるのかもしれない。
そしておそらく、そのひとつの形が、下手に元気を出さないことなのだ。
それなりの睡眠から目覚めても、まだ眠り足りないかと思わせるような強烈な具合の悪さが常に付与されている。毎日、起き上がることすら苦労しているし、どうにか起床に成功したとしても、半日も頑張れないことが少なくない。
根本的な体力の不足……もはや通常の生命活動を実行するには不十分であると言わざるを得ない、肉体の低レベル化が起こっているのではないだろうか。
残念ながら、というか、恐ろしいことに。

本質的な原因が、肉を食べていないところにあるとは限らない。外に出ず、絶対的な運動量が不足していることもまた大きな要因に違いないからだ。
しかし、運動が足りていないことに加えて、食事も必要最低限を満たすか満たさないかという程度では、普通に考えて元気が出ないのは当たり前の話かもしれない。
元気の源を身体の内側に取り込んでいないわけで、さらに身体を動かすための筋肉も落ちまくっているのだから、弱々しくなって当然だ。

 

ぼんやりと課題を認識しつつも、やはり現状では食生活に肉を導入するのは難しいと思ってしまう。
あまりにも面倒であると感じるがゆえに、その怠慢な性格が食費の抑制に有効に働いている。ここに肉を取り入れなければならないとすると、従来の水準で食事を考えることはできなくなるだろう。
具体的にいくら、という段階ではないけれど、たとえば現在の平均的な月の食費が1万円前後だとすると、ここに肉の分を追加すると1.5万円くらいは見積もる必要がある気がしている。
大したことはない。それは確かにそうなのだが、長い目で見るとそれなりの額になる。はたして健康面を重視して許容すべきコストなのかどうか、現状の私では確信に至ることができない。

もっとこう、たまに肉を食べた際にわかりやすく元気が出るような感覚があればいいのだけれど、この手の状態変化の観測には一定期間を要するがゆえに、肉を優先したい気持ちが湧いてこないのだ。
何を食べようが当日の気分に変化が生じることはない……人によっては食事に大きく左右されることもあるのかもしれないが、そうでない私はどこまで行っても食べることを優先できないと思う。