K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

凪の感情

いつからこうなったのか、あるいは昔からこうだった気もするけれど、私は非常に冷めた性格をしている。
周囲の人々が大きく盛り上がり興奮している様子を冷静に眺めたり、その理由について考えたりしている。自分は、その輪に加わって感情を昂らせることができない。
私の心が揺れ動くのは、ある限られた状況においてのみ。普段の私は反応に乏しく、きっと近くで私を見ている人は、私が何を思っているのか想像すらできないだろう。

 

中学生の頃だったか、高校生の頃だったか、ボケ殺しだと言われたことがある。
目の前で誰かが面白おかしい話をしても、特に反応を示さずにスルーしがちな私の応対を見て、そのような言葉を投げかけられた。
どうやら、普通はツッコミを入れるらしい。私は関東生まれ関東育ちなので理解できないが、おそらく関西では生きていくことができないのだろう。
そもそもの話になるけれど、ちょっとした会話中のボケを、私は面白いとは思えないのだ。どうでもいい。そんなくだらないことに反応を求めるくらいなら、さっさと本題を進めてくれ。余計な手間を要求されるのは心底、面倒に感じる。

そうした冷静冷淡な外面というのは、意図して無理に作っているわけではない。これはむしろ、心の素の状態だった。
なるべく精神に負担をかけず、マイペースに生きようとする。結果的として表に出るのは、感情の動かない……傍から見ると思考が読めない気味の悪いやつになった。
わかっていても、私は感情の動かし方がわからない。だって面白くないのだから。できることと言えば、せいぜいコミュニケーションに支障が生まれないように、下手な作り笑いを浮かべるだけ。
だから本当の意味で私が誰かと意気投合することなんて、決して想像することができないのだ。

一人きりの生活が続く現在においても、この傾向に変化はない。
Twitterのトレンドや、もしくは国民的なニュースでもいい。多くの人が話題にしたり共感を示したりしている出来事について、私の目線は極めて冷めている。
先日、サッカーには興味がないという日記を書いたが、ここまで世の中が騒いでいれば、自然と情報は入ってきてしまう。インターネットをやっている限り、無関心の情報でも規模が大きければ完全に遮断するのは不可能だ。
何やら歴史的快挙らしいのだけれど、この期に及んでなお、私にとってはどうでもいいことだった。ただの有象無象のニュースのひとつに過ぎない。そこに個別の感情を動かす余地はない。

興味がない出来事に反応できないのは当然として、関心を抱いて向き合える出来事に対しても、私は派手な反応で迎えることができないことが多い。
よく、喜ばしいことがあると大きな声で興奮をアピールする人がいる。まぁ本人にとってはアピールという認識すらなく、己の内側から湧き出るストレートな感情表現なのだろう。
その手の喜怒哀楽が豊かな人間について、私は羨望と嫌悪感の半々の気持ちで眺めることが多い。
羨ましいというのはもちろん、実際にどうかはともかく、素直に生きているのが楽しそうだからだ。ひとつの出来事にあれだけ大きな反応を露わにできるなんて、激しく感情を動かすことに長けていなければできないだろう。人間とは感情の動物でもあるから、そういう意味で人間としての深い魅力を備えているように思わないこともないのだ。
一方で、やはり私は騒々しいタイプが苦手なので、感情を全面に押し出す人を見ていると疲れてしまう。自分のなけなしのエネルギーさえ吸い取られてしまうような気がして、次第に嫌気が差してくる。それが対面でのことなら、なるべく関わらないように会話しないようにするし、最近は配信などネット上でそう感じることが多いけれど、うんざりして視聴を打ち切ることが珍しくない。

 

逆に、私が猛烈に心を動かされるレアケースについて軽く触れておくと……まず大前提として、どんな状況でも感情を表に出すことは滅多にない。それはもう、そういう風に育って性格が成熟してしまったから、冷淡に見られがちな姿を変えることはできないのだ。
ただ、内面における感情の上下は皆無というわけではない。ストライクゾーンが狭いとはいえ、上に書いてきたような凪の状態が必ずしもすべての出来事に適用されるわけではなく、私だって主観的な意味においては人間らしさの発露を行うことがある。

具体例を挙げるのは簡単ではないけれど、頻出する状況として代表的なのは、創作の世界に浸っている時がわかりやすい。
映画を観ている時、アニメや漫画を楽しんでいる時、小説という無限に広がる可能性に精神を預けている時……それらを楽しむ状況下においては、普段は動かない私の心が躍動することも少なくない。
もしくは、このように日記を書いている時や、一対一で他者との会話が成立している時も該当するだろう。自らの思考をアウトプットする行為は、どうにも感情のフィルターを通すことになるらしい。
終わってから振り返ると、今の私は人並みに心を動かしていたと思えるのだ。

そうそう、悪い意味になるけれど、タイムリーな具体例があった。
自分の落ち着いた生活環境を脅かす存在に遭遇した時、凪いだ心が一瞬でざわめく経験を直近数か月の間に何度も経験している。
クソみたいな隣人の存在は、ある意味で私を人間らしくさせてくれるのかもしれない。普段、ちょっとした出来事には何も反応できない私が、衝動的に殺したいとさえ思わされる隣人の迷惑行為……だからといって感謝する可能性なんて微塵もなく、本当に何か事故にでも遭って死んでしまわないかと祈っているくらいなのだが、己の感情の動きについて考えてみると、非常に稀な現象が起こっていることに気づいたのだ。

でも、せっかく感情を動かすのであれば、もっと前向きに考えられる明るい出来事に対してでありたい……これはかなり本心に近い考え方になると思う。