K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

ゲーマーではなかった

学生時代には、自身のことを人並みにはゲームが好きなのだと思い込んでいたのだけれど、実際にはそれほどゲームに興味がないのではないか……そんなことを最近よく考えるようになった。
マリオやポケモンやモンハンといった、多くの人が共通の話題にできるような人気作を経験してきた過去はある。ただ、ある程度の年齢を重ねて、継続的に新作を遊ぼうとは思えなくなってしまったのだ。

 

そもそもの大前提になるが、ゲームハードを購入していないという点が、ゲームソフトの新作に向ける関心度合いの低さに直結しているような気はする。
SwitchやPS5が手元にあれば、ひょっとしたら活用してやろうという気持ちにもなるのではないか。
せっかく買ったのに、遊ばないまま埃を被らせておくのは多少なりとも心が痛む。昔に酷使しまくったDSやPSPでさえ、もう長いこと触っていないと思うと申し訳ない気分になるのだから、もし最新のハードが家にあるのならば、新作ゲームへの関心は常々抱くことになるかもしれない。

ただ、ゲームそのものへの欲求が高いのであれば、ハードを所持していないという事実に我慢ならないという見方もできる。
どうしてもやりたいゲームが出てこない限りは購入の検討すらしないという時点で、私が大してゲーム好きではないという証明になっているのではないだろうか。
事実、定期的に大型タイトルがTwitterで話題になるけれど、プレイしたいと思うどころか、興味すら抱かず一切の情報収集さえ行わないことのほうが多い。

いつからこうなってしまったのか、明確に覚えているわけではない。
少なくとも、3DSが最新ハードであった時には新規ソフトの購入機会が年に何度かあった気がするので、私が積極的にゲームと向き合わなくなったのはSwitch発売以降ということになりそうだが……なんと驚くべきことに、2017年に発売されていたらしい。
感覚的には、コンシューマーゲームを遊ばなくなったのは2020年前後なのだけれど、現実にはそれよりもずっと前から、いわゆるゲームというものから離れてしまっていたようだ。

スマホで気軽にできるソーシャルゲームの流行もまた、原因の一端を担っているとは思う。
ソシャゲはプレイ中の課金を前提としているものがほとんどであり、最低限のプレイ体験を求めるだけなら、必要なのはデバイスにインストールする手間のみで、基本的に無料なのだ。
今や誰もが所持しているスマートフォンがゲーム機の代わりとなり、わざわざソフトを購入することもない。ゲーム世界へのアクセスが非常に簡素であるがゆえに、その質に関しては重厚感や没入感に欠ける傾向にはあるものの、単なる暇潰しの娯楽として捉えるなら十分に満足できる水準であるとも言えるため、本格的なゲーム体験を追求しない人間には最適なのかもしれない。
私はやらないけれど、その気軽さからSNSでの話題共有や友達作りにもマッチしているため、ネット上でのコミュニケーションを好む典型的なオタクがハマるのも頷ける。逆に言うと、ネット上ですらコミュニケーションを忌避する私でさえ気負うことなく遊べてしまうというところが、ソシャゲの恐ろしい部分のように感じる。
そういうわけで、大きくゲームという括りで見れば日常的に触れている娯楽媒体ではあるものの、近年の個人的な趣向は完全にコンシューマーゲームよりもソーシャルゲームに寄ってしまったというのが端的な事実なのだ。

 

ゲームというのは、時間がかかる。
下手をすると何十時間、何百時間、いや何千時間……と持っていかれる時間泥棒に等しい代物であるため、理想を言えば手を出さずに、もっと別の有意義な物事にエネルギーを費やしたほうが人生が豊かになる可能性はある。
もちろん、それは正論のようでいて、ただの机上論なのは理解している。ゲームから得られる知見や、ゲーム中にしか味わえない快感、あるいは出会い、満足感などなどメリットも多い。それこそ、人生を有意義にする大きな材料にだってなるのだ。
けれど、そう単純な話でないのが厄介なところで、やはり場合によっては際限なく時間を無駄にする落とし穴であるリスクも考慮しなければならない。

私が過去に触れてきたゲームでも、遊んでよかったと心から思える作品もあれば、完全に金と時間の無駄だったと後悔するものもある。
部分的には価値のあるものが得られたけれど、部分的には明確な損失だったという判断の難しいゲームも多くあり、その価値判断は人によって異なるだろうから、ゲームに対する評価というのはきっと、それぞれの人生によって変わってくるものなのだと思う。
遊び甲斐のあるゲームだけをプレイして生きていければ、ゲームにネガティブな感情を持つことなんてないのだろう。しかし、そのゲームが自身にとってどのような価値となるかどうかは、遊んだ後しか確定しないのだ。
得られるかもしれない何もかもを切り捨てて初めから手を出さずにいるか、少なくないリソースを注ぎ込んで貴重な体験を追い求めるか……おそらく無意識のうちにそういう観点が働いてしまって、結果が上下に振れやすいコンシューマーゲームに、私は手が伸びなくなってしまったのだろう。

良くも悪くも、ソシャゲは低コストで楽しみやすい。サービス終了以外ではゲームをクリアするということがないから、短期間で莫大な時間を投じることに意味なんてなく、日常のリズムを保ったまま付き合いやすい性質があるのだ。
一方で、あまりにも日常と同化しやすいためにメリハリは乏しくて、長い期間をかけて遊ぶがゆえに止めるのは容易ではなく、結果的に費やすことになる時間や労力、または満足度のコストパフォーマンスなどは、コンシューマーゲームと比べて多いのか少ないのか判然としないところがある。
適当にソシャゲで余暇を潰す生活が、長い目で見て幸福に繋がるのか……まだ答えは出せそうにはないけれど、そのうちゲームという存在との付き合い方を根本から見直さなければならない時機が到来しそうだという気はしている。