K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

嫌な声に揉まれないために

世の中の出来事というのは、大半が妥協や折衷といった、言い方を変えると「中途半端」の積み重ねによって成立している。見ていて気持ちのいい、瞬時に納得することができるケースは稀と言っていい。その多くは、受け手の心に困惑や葛藤を生じさせるものだ。
理由は簡単で、人間というのは他人と分かり合うことが難しい存在だからという話になる。近しい人間であっても相互理解には時間がかかるし、どれだけ一緒にいても譲れない側面は出てくるだろう。ましてや雑多に人々が関わり合う社会においては、その程度は果てしない。

 

そういう面倒が嫌で、どうしても強いられる人間関係の中において徐々に蓄積していくストレスを看過することができないタイプの人間は、いわゆる社会不適合者のレッテルを貼られることになる。各々の器量によって耐性の度合いは異なるけれど、社会で生きることが本質的に楽しくないのだ。
ただ、いくら嫌いだからと逃げていても、場合によっては生きるために避けられず、どうしたって経験しなければならないシーンは出てくる。まぁ逃げ続けてもなんとかなりそうなのが日本という特異な国の性質ではあるのだけれど、基本的には限界を迎えない程度に我慢しながら、面白くもない日々に人生を費やす羽目になるのがほとんどだろう。
私も例外ではないけれど、やや変わった選択の末、かなり珍しいルートに進んでしまったばかりに、今は少しだけ特殊な生活を送っている。
こういう生き方をしていると、つい一般社会の感覚というものが抜け落ちてしまいがちでだ。世間では日常茶飯事に巻き起こっているような、ありふれた「非常識」な事象に対して、かつて社会に揉まれていた時と比較したら、かなり過敏に反応してしまう傾向にあることを今の私は否定できない。
要するに、普通の人の感覚なら平気で無視できるイレギュラーな場面を、必要以上に重く受け止めてしまったり、深く悩みすぎてしまったりする。
もう少し具体的に言うと、自分が支持する対象にネガティブな意見が投げかけられている時に、異常な苛立ちを覚えるのだ。その対象とは個人的な関わりなんてないし、冷静に考えたら他人事でしかない。ただ刹那的かつ一方的な好意の感情であるにも関わらず、しかしながら、まるで自らのアイデンティティを否定されたかのように錯覚してしまう。

現代人はSNSをやっている人が多いから、目まぐるしく入ってくる情報の適当な処理には慣れていることだろう。
自分が好きなものに向けて積極的なアクションを起こし、そうでないものは見ないようにする……そんな器用な芸当を当然のように実践している。
まぁ中には嫌なものを無視することができず、目に入るやいなや衝動的に攻撃的なモンスターと化して、相手を徹底的に叩いて打ちのめさなければ気が済まないという……なんとも不器用で憐れな人間も少なからず棲息しているわけだけれど、インターネットを長くやっていれば、彼らがとりわけレアリティの高い生き物でないことは明らかなので、常識的な心を持っているネットユーザーとしては、彼らをこそ優先的に無視すべきだということは自然と学んでいくものだ。
私自身は現代に生きる若者のわりにTwitterを見る機会が少ないし、そもそも他のSNSはアカウントすら持っておらず、他者と関わる場を作ることが人類最低レベルに下手なのでどうしようもないのだが、ともかくネット上で誰かと関わることに頗る慣れていない。
流石にTwitterは近年のネットインフラと言っていい存在になっているから、一日に一度くらいはニュースなりトレンドなりを確認する機会を設けてはいるけれど、どれだけ気になるトピックであっても通常は軽く目を通すくらいであって、他に何をすることもない。感情を揺さぶられることもなければ、特定の誰かをフォローしたりブロックしたり、引用RTなんて以ての外だ。
そんな私が、今日ばかりは我慢ならなかった。原因は不明だけれど、きっと疲れているのかもしれない。ただ、感情の制御が利かないとか、そんな話ではない。極めて冷静な、私が最もダメージを受けないようにするための選択だったと思う。
初めて、ブロック機能を使ってしまった。

ツイートをせず、個人ユーザーをフォローしない私が特定の誰かをブロックしたところで意味があるのかという話になるけれど、まったく無意味ではないと思う。というのも、検索機能は多用するからだ。
気になる事柄について調べているのに、しばしば見たくもない発言が視界に入るのは精神衛生上、好ましいこととは言えない。今後、似たような検索をした際に類似の事故に遭うことのないよう、予防としてブロック機能を活用したという形になる。
これまでも、私と考えの合わない連中の発信を捉えてしまうことは多々あった。しかし、反対意見をことごとく排除するだけでは、自らの間違いに気づく機会を失うだけでなく、新たな生産性を損ねるリスクも抱えることになる。だから、どんなクソツイートであっても、なるべく心の中では許容してやろうという努力を重ねてきた背景がある。
ただ、今回ばかりはダメだった。最悪、エコーチェンバーを招こうが仕方ない。こればかりは、受容することができなかった。

 

この手の日記を書くのは随分と久しぶりなので、もしかしたら支離滅裂な文章になってしまっているかもしれない。
何が言いたいのか、文と文の繋がりが滅茶苦茶になっていても、今の私では何度も読み返さなければ鋭く気づくことはできないだろう。手間なので細かく読み返すことはしないし、ここから書き直す気力もないからそのまま放置するけれど……とにかく、今の私は相当に弱っているらしい。
昔から肉体面は貧弱だったけれど、わりと自信のあった精神面さえ弱くなってしまったようだ。ストレス耐性の低下が招くのは、人間がいる場所に近づくことの拒絶だった。
なんとなく自覚してしまう。もう、まともに他人と関わることはできないのではないか……と。

おそらく非常に抽象的ではあったけれど、ほとんど言いたいことは上のほうに書いたつもりだ。だから最後に、こういう日記を書くことになった具体的な理由について、少しだけ触れておきたい。

本日はJRAから顕彰馬の選定に関する発表が行われた。
昨年はアーモンドアイの落選により話題になった顕彰馬関連の論争だが、今年は昨年に反感を買ったせいか、驚くべき得票率によって決定している。
この結果には、素直に祝福の言葉を送りたい。そもそも昨年に落ちているのが意味不明なわけだが、無事に選ばれて本当に良かった。間違いなく歴史に名を刻む名馬なのだから、そういう馬を称える制度として存在している以上は、然るべき形で運用されるべきなのだ。
一方で、今年から対象に入ったコントレイルは惜しくも一票が及ばず落選という結果になった。これもまた、従来の感覚からすれば不満が噴出しても不思議ではない大問題なわけだけれど、昨年の件があったからか、妙に受け入れやすくなってしまっている。
もし昨年、順当な結果で終わっていたら、こんな事態にはならなかっただろう。アーモンドアイが一発で通らなかったのだから、コントレイルが落ちるのも仕方ない。むしろ初年度でこれだけ支持されていれば、来年はほぼ確定だ……これは、もっともな意見だと思う。
けれど、これで来年の「確定枠」がまた埋まってしまった。一人の競馬ファンとしては、選ばれてほしい、選ばれるべきだと思う馬が他に何頭もいるというのに、毎年のように票が分散してしまって、次から次へと名馬が渋滞していく現状をあまり望ましくは思えない。
投票システムに欠陥があるだけでなく、投票者にも問題がある。そんな風に考えてしまうのは、別におかしなことではないだろう。

選ばれた馬、選ばれなかった馬、それぞれの得票数、顕彰馬という制度そのもの……たくさんの意見が飛び交う中で、私は自分の「好き」という感情を守るために、今回に限り、見るものを制限することにした。
わざわざ目立つ場所に気持ち悪い意見を書き込んでいる人間のことは、心の底から軽蔑している。ただ、私は争いを好まない。自身が傷つくのも嫌だ。だからこそ、見ないようにするという手を選ぶしかなかった。
観測しなければ、存在しないのと同義だ。そう、私が不快に感じるコメントなんて、一切なかったのだ。