K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

とっくに信じてはいない

先月の頭くらいのことだった。
それは、ちょうど一年ほど前から関わっている、とある案件について話をしたいという連絡で、近いうちに落ち着く見込みだから下旬あたりに会おうという内容だった。
前提については過去の日記において、数か月に一度くらいのペースで取り上げているため詳しくは書かないけれど、とにかく私の立場としては先方からの連絡待つことしかできないのだ。
だからこれは、ようやく本格的にスタートできそうな期待感を私にもたらすものだった。

 

これまでに何度も、向こうから具体的な日にちを提示されては忘れられるという、社会人としては最悪な経緯を繰り返してきている。
これくらいの時期には進捗が生まれるはず……約束から逆算して、いざ開始した時に無理が出ないよう少しずつ日々の生活を改善していこうと計画したこともあった。
しかしながら、そのすべては、まったく思い通りに果たされることはなく、誇張抜きで何も進展がないまま丸一年が経過している。

こんな仕打ちに遭っていて、まだ絶望を抱かず平然としていられるのは、どこか私もネジが外れているからなのだろう。
きっと私が真っ当な人間であれば、とっくに縁を切っていてもおかしくないほどに意味不明な扱われ方をしていて、様々な観点で機会損失も甚だしい。
一年前は、とてもわくわくしていた。
今では、いつか実現できたら幸いだろうと軽く考える程度の存在感に成り下がってしまっている。

知っていたのだ。
あの人の言葉は、そのまま信じても無駄だということを。
約束しているようでいて、それはただの理想論に過ぎない。現状、私は外部から輪郭を眺めていることしかできないから、あまり臨場感のない感覚的な思考で物事を捉えてしまうけれど、あらゆるプロジェクトの中心にいるあの人にとって、状況は刻一刻と変化している。
私とのやり取りで生じた理想的なスケジュールは、日が進むごとに私の見えないところで徐々に遅延しているのだ。当初の想定を、そのまま信じ込んではならない。

知っている。昔から、そういうやつだった。
約束というのは、あくまで約束をした段階での最適解でしかない。複数人が関わる仕事というのは、得てして個人が考えるほど上手くはいかないものだから、ほぼ必然的に原初の約束と心の中で考えている約束との間には齟齬が発生する。
心は臨機応変に形を変えるため、中身が変容していることにリアルタイムでは気づきにくいのだろう。いつしか、あの人にとって外側の存在である私が認識している約束とは、大きく異なるものを「約束」と捉えるようになってしまうのだ。

私自身が軽視されているわけではない。蔑ろにされているわけではない。
ただ、あまりにも多忙であり、常にイレギュラーに対応に追われすぎであるがゆえに、過去の約束事をスケジュール上においても心の中においても、固定させることができないだけなのだ。
仕方ない。私は、私なりに理解しようと努めている。そういうものなのだと……あの人と関わって生きていくということは、振り回されることを受け入れなければならないのだと。
それに、約束という言葉を使うから、破られたら悪いことをされた気分になるのだ。違う。これは、約束ではなく見込みでしかない。余計な期待をするな。

 

私の中の想定では、本当は先週には何かしらの連絡があるはずだった。
しかし、何もなかった時点で、新しい展開が起こる予定は三月末まで延長された。四月に突入する可能性すらある。感覚的な話だが。
数日遅れとなる明日や明後日に明確な動きがあるとも思えないし、しばらくは先月までと同じように、基本的には意識しないままで問題はないだろう。

ちなみに、上に挙げたような表面的な会話や約束の信憑性には強い疑いを持っているけれど、人間関係的な深いところでは物凄く強力な好意を伴いながら信じているところがある。
いまさら「やっぱりなし」とは絶対にならないであろうと……これは昨年の秋に会った時点で確認を取ったことでもあるのだが、とにかく待っていれば悪いことにはならないという確信がある。

あくまで予測だが、案件開始と同時に私の生活は一変するだろう。
今とは比較にならない忙しさと、新しい刺激の数々……楽しみでありつつ、若干の恐怖もある。
数か月後の私がどうなっているのか、まったく想像できない。