K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

引っ越し・後編

中編を書いたのは、いったいどれくらい前だったか……確か昨年の十月か十一月頃だった気がするのだけれど、それから随分と間隔を空けて、後編が今日になったのには理由がある。
何しろ運ぶべき荷物や買うべき家具などが多くて、業者を使わないため一日で終わらせるのは難しく、それでいて実家の自室が一向に片付かないから帰省するたびに少しずつ進めてきたという……まぁマイペースな感じは私らしいと言えば私らしいのだが。

 

既に数か月、それなりにやってきているから、もう絶対に実家から持って来なければならないものというのは特にない。
どちらかと言えば、しばらく生活してみて不便を感じた点を解消するための作業という趣きだった。
使わなくなっていたけれど一人暮らしには便利そうなキッチンアイテムを持たされたり、以前に自室から移動させた書籍類の収納場所に困っていたから本棚を買ったり、まぁ大袈裟に引っ越しというよりは、ちょっとした労働力を借りたと言うべきか。

入居した時からずっと、だいたいニ、三週間に一度は数日間の帰省を続けていた私だけれど、本日をもって長期間の孤独タイムに突入することになった。
用もないのにわざわざ帰ることはないだろうし、もしかしたら来月には諸事情で顔を見せに戻るかもしれないが、当分は独立状態を維持することになるだろう。
いよいよ親の作る飯は食えなくなるし、栄養管理を含む身の回りの世話をすべて独力で継続していく習慣を磨いていかなければならない。
思い返してみると、一人暮らし三週間目くらいで栄養失調ゲージが限界に到達しそうになり、それを毎回実家でリセットしていたような感覚がある。仕方ないだろう。実家の温もりに敵うものはないのだから。幸せな家庭で育った私は、もはや本能的にあの場所を求めてしまうのだ。

しかし、あまりに長居をしていると、ぬるま湯に浸るようにずるずると活発な意識が低下していくような気がした。家を出た理由の一つに、あの環境では甘えてしまって集中力を発揮する機会を失ってしまいそうという予感があったのだ。
実家に滞在するのが悪いこと、とは決して言えないけれど、いいことばかりではないのも事実かもしれない。
与えてくれた温かい気持ちに対しては、今回も心の中でしっかりと感謝を唱えることができた。本来なら、直接言葉にして伝えるべきなのだろう。ちょっとした恥ずかしさから、つい避けてしまうのだ。それでも、普通に会話をするだけで伝わることもある。実際のところ、心残りはもうほとんどない。
というわけで、明日からの日々に備えて本格的に意識の切り替えを行わなければならないのだけれど、いくつか問題点があることに気づいた。

 

一人暮らしの何が駄目かと言えば、本当に人と話さなくなることだ。会社員で、出社する機会のある人はまた別だけれど、私のように買い出しなど用事がある時を除いて外出機会が滅多にない人間は、まず誰とも会わなくなる。休日にオンラインで通話するような友人もいないため、話し相手というのが基本的に存在しない。
独り言なんてたかが知れているし、さて困ったものだ。どうしよう。そんな話だ。

会話というのは非常に頭を使う。喋り慣れている人にとってはなんでもないことでも、しばらく言葉を発しない期間が続くと、意思を伝えることが困難になる。適切な表現が出てこなかったり、舌が上手く動かずつっかえたり。文章によるアウトプットと同じく、感覚を喪失してしまった後は会話にもリハビリのようなものが必要なのかもしれない。私は、その一歩手前まで能力が落ちていた。
昨日は低気圧にやられてしまったが、一昨日は凄かった。話し始めたら、次から次へと言葉が出てくる。まるで、せき止められていた文字列が噴出するかのように、怒涛の勢いで会話を……というより一方的な語りかけに近いものではあったけれど、とにかく声を出しまくることができた。
一人きりの空間ではあり得ない体験がそこにあって、いくら消極的・内向的な性格であっても会話が皆無では駄目になってしまうのだと感じた。
おかげで、使うことに慣れていない喉は急な酷使に耐えきれず、昨日今日と筋肉痛のごとき痛みに苛まれているし、かつて健全だった頃にどのように発声していたのか、その感覚をまったく思い出せない始末だ。
仮に一年も無言で生活をし続けたら、本当に発声器官が退化してしまうのではないかと考えてしまうくらいに、喉はデリケートなのだと思い知る。

今日は多少の肉体労働があったので、喉だけでなく腕やら手やら指やら、節々が痛い。
まだ若いはずなのに、今からこんな身体でこの先まともに生きていけるのだろうか。