K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

APD

いつだったか忘れたけれど、私は音声を捉えるのが上手くないという日記を書いたことがある。
たとえば、飲み会の喧騒において、人の声を認識することは困難だ。目の前の人が何を言っているのかわからず、適当に笑顔を浮かべて相槌を打つ。もちろん、会話なんて成立しない。
たとえば、電話口に何度も同じことを聞き返してしまう。不明瞭な音声は言葉として頭に入ってこないし、口の動きや表情も見えないから推測することすらできない。
店内に流れている音楽が音楽として聞こえないことも多いし、好きな曲であっても歌詞カードを見る前に歌詞を認識できることは稀なのだ。


多かれ少なかれ、コミュニケーションに問題を抱えている人には共感を得られるかもしれないが、私は特定の状況下において明らかに、一般的な人間よりも聞き取り能力が劣後している自覚がある。
静かな環境でゆっくり喋ってもらえれば、問題を感じることなんてほとんどないというのに……雑音の多い場所、早口、滑舌の悪さ、聞き慣れない語彙……クリアな会話を妨げる要素が増えていくにしたがって、耳に入ってくる音声の輪郭が曖昧になり、私の脳はそれを正しい形で受け入れることができなくなる。

物心がついた時からこうだったし、家では父親が似たような特性を持っていて聞き返されることが多かったから、私が同じように音声の認識能力が低いのだとしても、それは特別に変なことだとは考えなかった。
しかし、大学までの学生生活を経て、社会に入り、様々な人間と接する機会を経験していくうちに、私は大きなディスアドバンテージを抱えているのではないかと徐々に思うようになる。
周りの人間が認識できていることを、私だけが理解できていない。今、耳に入ってきた謎の言葉は、いったいなんだったのか。考えているうちに話はどんどん先に進み、認識できている文脈すら受け止められなくなって、そのうち頭の中で会話の辻褄が合わなくなる。
地頭が悪ければ、そこで無能の烙印を押されて多少は楽になったかもしれない。けれど、私は無駄に要領が良くて機転が利いたし、調べ物をするのが得意だったから、聞き逃したところで結果的に失敗するということが滅多になかった。だからなのだろう、日常生活における不都合は無意識的にカバーしてしまうから、こういう性質に名前が付けられているなんて考えたこともなかった。

APDとは、すなわちAuditory Processing Disorder(聴覚情報処理障害)のことだ。
主な症例は上にも書いたように、聞き取りに関して問題が生じるわけなのだが、明確な定義は難しいらしく個人差も大きいようで、それほど知名度はないように思える。
私も先日、Twitter上で見かけるまではあまり意識したことがなかったし、「聞き取るのが苦手」という得手不得手レベルの事象であると思っていたから、はっきりと「障害」と認識したことはなかった。
調べれば調べるほど、私が感じている「できない」「わからない」といった症状に合致する情報が見つかって、なんだ障害だったのか、それなら仕方ないよねと思うようになった。

 

単純に聞き取り能力が低いというだけなら、まだ良かったのだけれど、よくよく考えてみるとAPDに関連して、物事への理解力や集中力なども大きな影響を受けているような気がしてきた。
よくある事例で言えば、ふとした瞬間に目の前に流れている光景から意識が離れて、約十秒ほどではあるが前後の繋がりを認識できなくなることがある。
家でアニメを見ている時に顕著なのだが、キャラクターが何を言ったのか聞き逃してしまい、少し巻き戻すようなことがよくある。YouTubeの動画などでも頻繁に発生するから、主観的には特別な出来事ではなく「よくあること」なのだけれど、どうやら普通の人にはあまり起こらない現象らしい。
他方で、映画館という環境は最高の没入感を手に入れることができるため、APDの症状を感じることはほとんどない。基本的に音声もはっきりしていて、言うなれば脳に直接、伝わってくるイメージになるのだろうか。本当に集中して楽しみたい作品は、やはり劇場で観るに限る。

そういえば、高校生の時は英語のリスニングが大の苦手だった。
日本生まれ日本育ちで、言語形成期のほとんど100%を日本語の環境で育ってきた私は、根本的に異国語というものに慣れがない。それ自体は珍しいことではないだろうが、私はいくら授業で聴いても、CDをリピート再生したとしても、なかなか耳が英語に順応してくれなかった。
なんて、英語のセンスがないのだろう。リーディングは勉強すればするだけ成績が伸びるのに、リスニングは一向に点数が安定しない。そうして、いつしか悲観的になった私はリスニングに割く勉強時間をカットし、本番の試験は運に任せることにした。
結果から言うと、適当にマークした数字が正解を引きまくったおかげで8割くらいの点数を出すことができたけれど、それは過去最高の出来だった。練習では平均して4割程度しか取れていなかったのだから、苦手科目を捨てて得意科目を強化する戦略には、一定の効果が見込めるのだと思う。
ともあれ、私は耳が認識してくれない単語について、しばしば思い悩み、そして気にしないことにしたのだった。

何が問題なのかと言えば、耳の中に入ってきた言葉を脳が検知して、それがスムーズに行かずどこかに引っかかった際に、言葉の流れが一気に詰まってしまうことなのだ。
瞬時に意味を解釈できないワード……それは自分の使用語彙になかったり、慣れない外国語であったりするわけだが、そういったものが後に続く言葉の解釈を堰き止めて、全体の理解を妨げる。その瞬間に、私は文脈というものを失う。
どうにか最初の謎が解けた頃にはすべてが変化していて、もう手遅れだ。映像作品なら戻って見直すしかないし、リスニングの問題なら諦めて運に委ねるしかない。
つくづく、同時通訳なんて私には決して無理な仕事だろうと思う。

 

これも昔からのことなのだが、何事においても口頭で教えられるよりは実際に見てみるか、説明の書かれた文章を読むほうが何倍も理解が速かった。聞き取った言葉を頭の中で順序立てて論理的に構築するのが、きっと上手くできないのだ。
その一方で、一度でも視覚を通して入ってきた情報は質が段違いで、それを適切に扱うのには自信がある。私は極端に、音声ではなく視覚優位の人間なのだろう。

そういった自己に対する新しい発見は、今後の様々な学習に活かしていきたいとは思うのだが、仮に失明するような事故に遭ったり病気を患ったりした際には、私の人生はどうなるのかと考えずにもいられない。
眼は大事にしよう。