K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

ストレスの少ない心にもメンテナンスは必要

頭が痛い時は、低気圧のせいにしてしまえばいい。自らの不摂生に原因を求める必要はなく、ただ天候の影響を受けているだけだと考えれば、そこに生じるストレスは頭痛そのものに限定されるからだ。
とはいえ、少し気に障る程度の痛みで貴重な一日を無駄にするわけにもいかないため、多少の我慢は要求されるかもしれない。今日は、有り余る元気に満ちた日には気づかないであろう、目の前に広がる「空虚」を感じた日だった。

 

起床から就寝に至るまでに経験する、半ば習慣であり半ば新たな取り組みでもある「生命活動」において、ほとんどの場合は一定の目標が大小様々に転がっている。
特別に意識をせずとも、あんなことやこんなこと、といった直近で実施するかもしれない行動の候補が頭の片隅に常駐しているイメージで、そこに必須のタスクが割り込んできて適当に全体の整理をしながら、体力とモチベーションに応じて順次消化していくことになる。
特に積極的な意欲が湧かなくても、食事や睡眠、あるいは排泄などの生理的な行動は人間に限らず動物は必ず行うものだし、深く考えることもなく「なんとなく」過ごしているだけでも、昼から夜までの時間を潰すくらい難しいことではない。

意外なことだった。記憶を探れば、以前にも同様の感覚に陥ったことはあるのだけれど、近年は経験がなかったから本当に珍しい。
ふと、何をしていいかわからなくなったのだ。何もしようという気にならない。身体が動かなくなって、時計の進みが異様に遅く感じられる。
誰か他人から特定のタスクを強いられ作業を抱えているわけではなく、自身の管理によって日々の方針を決めているからこそ生じる副作用ではあるが……興味が引かれる物事に注意を向けることで気を紛らわせれば、いつの間にか脱出できる可能性はあるものの、今日はそのための燃料すら不発だったから困惑した。
起床後数時間というタイミングで、寝不足というわけでもないから眠気を感じずベッドに向かう気分にもならない。ただひたすらに、陽が傾くのを待ち続けるのは想像していたよりも苦痛度が高く、やはり滅多に経験すべきものではないと確信した。

暗くなってからは、普通に身体が活動を再開した。何事に対しても著しくモチベーションが失われた状態から解放され、たった数時間前の出来事であるのに別の人間へと変質したような、なんとも奇妙な感覚だけが心に残っている。
鬱の症状として似たようなものがあったと思うけれど、確かに刺激に乏しい孤独な毎日を送っているわけだから、そういうリスクは常に抱えていると言っていいだろう。決して、私の精神が健全であるとは思っていない。

なるべく、眼前に設えられた雑多な目標項目を見落とさないように、失念しないように、歩んでいきたいものだ。
今日のようにならないようにするための対策は、現状なかなか立てづらいところがある。けれど、何かに強く熱中さえしていれば高確率で回避できるはずなので、まずは熱意を向ける対象を作り出すところからだろう。

 

そういえば、昨年から度々悩みの種となっている某案件について、二か月ほど前に「落ち着いたら連絡をする」という連絡があったきり音沙汰がないことを思い出した。
もうすっかり、思い出そうとしなければ思い出せないくらいには非日常の領域になってしまった話なので、私としても半年前や一年前ほどの関心レベルは維持できず、たまに振り返っては急速に忘れる流れを繰り返している。
もはや即座に進捗が生まれる期待はしていないし、来年や再来年まで……あるいは死ぬまで待たされるルートに突入している確率も存在していそうだ。

催促したところで現状に変化が生まれるとも思えないが、近いうちに状況を尋ねてみよう。
昨年は待機に注力しすぎるあまり、自らの最も労力を費やすべき課題を随分と疎かにする羽目になった。
半分くらいは自業自得でもあるのだが……今年は同じ轍を踏まないように、無謀にも期待する感情はきっぱりと切り捨てて、まだ開始できる段階までに相当な時間を要する気配を少しでも察したら、当分は「なかったこと」として捉えるくらいの意気込みでいきたい。