K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

同レベルは少ない

もし私の生きている世界がゲームの中で、各種パラメータが客観的に比べられる状況なのであれば、こういう悩みは発生しないことだろう。残念ながら、現実は現実でしかないのだが。
画一的な学校教育によって、便利に使える社会の歯車を生産し続ける社会構造が存在しているという側面はあるものの……もちろん人間には個性が備わっているため、実際のところは完全に同一視できる部品というわけにはいかない。それぞれの人間は、様々な面において異なる特徴を有する。

 

純粋な意味で、多様な個性が等しく評価される環境ならば、生きるのに苦労することなんて滅多にないだろう。
ただ、万能な人間なんて理想でしかなく、結局どこまで自由に生きようとしても、人は特定の「上手くいかない」事象に悩まされることになる。
得意分野は物事の進行にブレーキが掛かりづらいから、そもそも「上手くいっている」という自覚すら感じないかもしれないが、苦手な領域はまったく対照的だ。
己の能力を武器にできず、一挙手一投足を無意識に落とし込めない。いわば、常にストレスを感じる状態で取り組む必要があるから、事あるごとに「そうではない人」との比較が生じることになる。
ああ、なんて下手くそなんだろう。

私は生まれつき器用なほうだから幸いにも経験が少ないのだけれど、稀に苦手なパターンに遭遇した時には極力、精神的なダメージを減らすように思考をシフトする。
もともと興味がある場合は別として、なんとなくやってみて上手くいかない物事には、注力する必要などないのだと思い込むのだ。要するに、やる気がないのだから下手で当然という方向に持っていくことになる。
そうすることによって、苦手分野に対する苦手意識は勝手に消えていき、基本的な日常に対する認識は得意分野あるいは得意でも苦手でもないフラットな評価に相当するようになる。

ただ、世の中にいる大多数の人間は、そういう割り切りができないこともあるようだ。
そもそも苦手だと自覚していないとか、赤点を平均点だと勘違いしているとか、何かと「できる人」からすれば恥以外のなんでもない行動を、当たり前のように実施している連中で溢れている。
しばしば以前から書いてきているように、これが「世の中には想像以上にバカが多い」と感じる現象における、真実の一面なのではないかと思う。
一つの分野に特化したスペシャリストを前にしたら、私なんて赤子のようなものだけれど、中途半端に平均点を上回れてしまうせいで、不本意に他者を見下してしまうことが少なくないのだ。
こんなこともできないのか、などと頻繁に思ってしまうのは、決して褒められたことではないだろうに。

 

私が、リアルでもインターネット上でも他の人間との交流を病的なまでに避けがちなのは、単純にコミュニケーション能力が低いからだと考えていた。
しかし、この絶妙な能力格差を必要以上にネガティブに捉える性質が頗る悪さをしていたのではないかと、ふと思ったのだ。
対人関係において、相手を知ることは重要だろう。けれど、知れば知るほど実力というのは浮かび上がってきてしまうもので、それが自らの基準を下回っていると判断した途端に、その関係性を満足に楽しめなくなってしまうような気がした。

どうやら、私が無意識に設定しているボーダーは非常に高いようだ。過去(主に大学以前)に知り合って仲良くなった人間に恵まれていたというのが最大の要因だと思うけれど、たとえば会社に入って関わりを持った同期や部署の先輩などは、初めて会ってから数日〜数週間のうちに頭が悪いと認識するようになっていた。
とても罪深いことだ。ただ、自らの周囲にいる人間のレベルの低さが常々気になり、心労に繋がっていたことは紛れもない事実だった。本当にどうしようもない。

SNSという媒体でアウトプットを行うことが肌に合わないのも、この観点から分析すれば即座に腑に落ちる。
きっと、思いきって積極的なコミュニケーションを起こしたとしても、そう長く経たないうちに作りかけの関係は瓦解することだろう。何においても温度感が違っていて、話が噛み合わない。うんざりして自ら止めてしまうか、もしくは私の発言に嫌な思いをして人が離れていくことになるだろう。
本質的に消極的な性格だから今のところ目立つ動きは見せていないけれど、もし人目を気にしないタイプだったとしたら、いわゆる「Twitterが向いていない有名人」のような存在に近くなっていたと思う。

つくづく自分本位で、個人主義で、そこに他者の意識が介在することを極端に嫌う人間性なのだ。
この先、いったいどうやって生きていけるのだろう。わからない。
自分と同じレベルに立っていて、価値観の乖離していない理想的な人……それが友人という立場になるのか、先生のような立場になるのか、肩書きはどうでもいいけれど、気長に待ち続けるしかないのだろうか。