K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

一人称

文章を書くときに意識していることがいくつかあるのだけれど、一人称はその一つだ。
過去の記事を読んでわかるように、基本的に一人称は「私」で統一している。たまに「自分」が出てくることもあるけれど。

 

 

一人称について語るとき、私は過去の記憶に思いを馳せる。幼い時分、私は自らのことを、なんと呼称していたか。
なんでもない、ただの子供だった。ありふれていて、普通で、特別な意識なんてない。自身の呼び方について悩むことなんてなかった。

物心がつき、他者を意識するようになり、次第に自分の発言が相手に与える印象について注意を向けるようになると、一人称は変化していくものだ。
私は口語において、中学に入るまでは「僕」によって自己を示していたけれど、それ以降では徐々に一人称(つまり主語)を使わなくなっていった。
なぜか。
私は、「僕」を使うことが恥ずかしくなっていったのだ。きっとこれは、ありがちな話なのだろう。成長期において一人称を変えていくことは、周囲を観察していても発見できる事実であったし、ごく自然なことのように思える。
しかし、私は「僕」を捨てたからといって、新しい一人称を獲得することができなかった。
一般的に使われる「俺」について、私は好ましいイメージを抱いていなかった。自己を前面に出すようで、押しつけるようで、攻撃的なようで……これは個人的な印象に過ぎないのだけれど、控えめで臆病で弱気だった私は、外向きに「俺」と発言することに、強い抵抗感を覚えずにはいられなかった。

主語を省略しても意図を伝えることができる。これは、日本語のありがたい特性だ。私は、誰かと会話するときに一人称を使えなくなってからも、基本的に困ることはあまりなかった。
ときおり、どうしても自分を指し示さなければならないこと――たとえば、「誰の?」とか「誰が?」のような質問の答えが私である場合――がないわけではない。そういう状況においては、意思疏通に苦慮した。
直接言葉にすることができず、婉曲的な表現で無理やり解釈してもらうか、自らを指で示すしかない。下手をすると相手に不快感を抱かせてしまうし、表情に乏しいジェスチャーなんて不躾もいいところだ。

そんなこんなで、大学に入るまでは一人称を封じてしまっている状態だったのだけれど、そこでの出会いによって変化が起こる。待ち望んだ、きっかけ。周囲に「私」を使う人が増えてきたのだ。
「私」であれば、口に出しても違和感がない。それに気づいてからは、私は少しずつ「私」によって自己表現することができるようになっていった。
日本であればどこでも使える。失礼にもならないし、オールマイティのツールだ。
今でもやはり、私は「僕」や「俺」を使うことができないのだが、「私」であれば、外でなく家族に対してさえも言えるようになった。もう一人称に悩む必要もない。
そういえば、数年前は「自分」を使うこともあった。でも、あれは文脈によって使いやすさが変動しやすく、また意図が伝わりづらいこともあり、使い勝手が悪いということで、使用頻度が低下していった。今後も、あまり使うことはなさそうに思える。

 

一人称の使いどころは、会話だけにとどまらない。脳内で溢れてくる言葉たちにも、一人称を与えてやるとテンポが生まれる。外に出ていく言葉とは対照的に、私は自らの思考において、昔から一人称を使ってきた。
しかも、特にシチュエーションの制限などがないため、バラエティに富んでいる。
現在、私が使う可能性のある一人称は、およそ8パターンある。他にもあるかもしれないが、すぐに思いつくのはこれらだ。

「ボク」「オレ」「ワタシ」「ワタクシ」「ワシ」「ワイ」「ワレ」「ジブン」

使い分けは、別に決まっていない。気分によるところが大きい。
ただ、実際に言葉を発していた実績があるせいか、「ボク」と「ワタシ」の比率がかなり高い。
そしてやはり「オレ」は心の中で言う場合にも、ちょっと違和感を覚えてしまうので、今後も私の口から発せられることはないだろう。

 

 

本日の絵

20200615

変に頑張ろうとして構図に殺されるやつ。
どこかがおかしいのはわかっているけど、すぐに修正できる能力はまだないようだ……