K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

某宣言について思うこと

個人的な生活を基準に考えていくと、私の生き方は随分とイレギュラーなところに分類されることになると思うので、あまり一般的な価値観にはマッチしないかもしれない。
実際、外出を控えろとか言われても、もともと外に出ない人間の行動パターンに変化は表れないのだから、何かが制限されているという事実を実感する機会は非常に少ない。

 

とはいえ、昨年の正月頃までは定期的に催されていた飲み会の企画が、今やまったく立つ見込みのない点については不満に思うことがしばしばある。
これは大学時代のサークルにおいて仲が良かった十人程度のLINEグループの話なのだが、昨年の四月以降、特に動きがなくなってしまったので一抹の寂しさを覚えている。
レンタカーでワイワイ楽しく旅行をすることも、当分はできなくなってしまった。
全員が(表向きは)社会人となって久しいけれど、それぞれ忙しい中で予定を調整しつつ年に何度か会う機会を作っていただけに、この流れは残念でならない。

自粛しろという宣言が出たところで、多数派であるサラリーマンの日常が大きく変わるということはないだろう。通勤しなければならない人は通勤を続けるだろうし、テレワークに慣れた人は変わらず在宅勤務を継続する。
しかし週末や大型連休といった余暇の使い方が制限を受けることは確実で、不満は蓄積するばかり。昨年から何が変わったかと言えば何も変わっていないし、むしろ悪化しているくらいなので、「言うことを聞いても事態は好転しない」という認識が定着してきている。
そんなわけで、そろそろ「宣言」の意味合いというか、自粛を促す力にも限界が見えていて、おそらく近いうちに守られなくなっていくのではないかと思っている。
既に一部の飲食店では抑圧から逃れるための試みが行われているようで、要請の形骸化が見受けられる。

飲食産業はまだ補償が出るから微妙なところではあるものの(諸説ある)、イベント・エンタメ産業にとっては本当にバカバカしい話で、ある程度は無視する動きが出てきてもおかしくない。
世情は一年前とは異なる。
一年分の経験は大きく、根拠のない規制に従う無意味さに気づいている人は少なくないだろう。
結局のところ強要できない以上は、大衆の動きは善意と悪意と雰囲気によって決定されることになるわけで、一度瓦解してしまった流れを堰き止めるのは相当に難しいのではないか。

冒頭に書いたように、個人レベルの影響は特に感じられないので、政策に対して賛否を述べるだけの理由はあまりないのだけれど、このままだと次第に無秩序化が加速していきそうだなぁと思うようになった。
まぁチラ見した様々なデータが、わりと絶望的なところまで来ているっぽいので、もはや先のことは知るかという精神で、しばらくは個々が好きに生きていったらいいのではないかという気さえする。

周囲の意見や空気感に影響されすぎて、自らの意志決定の幅を狭めてしまうことは損失でしかない。
日本人は「右に倣え」の心が幼少期から教え込まれているから、こんな状況に陥っても自分の頭で考えて判断することができない。普通にしているだけで、徐々にアイデンティティを失っていっていることに気づきもしない。
流石に主語が大きすぎるだろうか。そういう傾向が顕著だ、くらいの意味合いのつもりで、的外れだとは思っていない。

……いずれにせよ待っているのは地獄のような社会だろうから、もう詰んでいる気がしないでもない。


やろうと思えば人並みにはできるけれど、「普通のこと」や「みんなと同じこと」にどうしようもなく退屈し、絶対的な苦痛を感じてしまう私にとっては、「人生とはこういうもの」という固定観念に沿って生きようとしている人が不憫であり、羨ましくもある。
彼らは幸せなのだろうか。幸せのつもりなのだろうか。
わからない。それで気楽でいられるのなら、きっと「一人前の社会人」のセンスがある。私にはなかった。

あるいは時代錯誤だと理解していながらも、あと一歩を踏み出せないという人は、実はたくさんいる気がしている。
もちろん保証はなく、一度手にしている安定した基盤を捨てることになるのだから、性格によっては現状維持のほうが正解という場合もあるだろう。
それでも、なんだかもったいない。
泥舟に乗り続けるか、降りて溺れるか、泳いでどこかに行き着くか。
ほんの少しだけ、勇気を出してみればいいのに。