K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

妥協

とあるブログを眺めていたら、こんなコメントが目にとまった。

「自分で納得できないものを客に売るのは失礼だ」

これは本当に、正しいことを言っていると思う。突き詰めていったら反論の余地がない。
一方で、どうしようもなく理想論でもある。理想的だ。常に意識としては、そこを目指したい。クリエイターとはそういうものだ。
しかし現実的に考えてみれば、とても困難な要求だ。難しすぎて、もはや理想ではなく幻想の領域かもしれない。中には実現可能な人もいるかもしれないが、それはもう、人ではなく神なのだと思う。

 

創作には答えがない。人それぞれで生み出せるものが異なるし、昨日の自分と今日の自分を比較してみても、微妙に差異が生じる。何かを作り出す力というのは、言ってみれば、ひどく曖昧な能力だ。安定して成果を上げるためには果てしない鍛錬が必要だし、その先に待っているのはさらなるクオリティを追求する怪物の姿だ。
他者からどう見られていようと関係なく、もっと高みを、という己の囁きに従うことでしか生きることができない。

仕事としてやるのであれば、客観的な評価は重要だと思うのだけれど、それとは別に、自分の中に定めた基準を超えなければならないとも思う。クリエイターという人種は自尊心が高いはずだから、納得できないものを世に出すのは恥だという意識は、珍しいものではないと個人的には思っている。
ただ、実際にはスケジュールだとか納期だとか、要するに自分の意志では動かせない外的要因があって、自らが発揮できる力は必ずしもそれらと連動しているわけではないのだ。どうしても、妥協しなければならないポイントが出てくる。
限られたリソースの中で、より良いものを作る。それは、自らの最大限の傑作というわけにはいかないけれど、できる限りの結果ということで確かな情熱が込められているはずだ。だからこそ、クリエイターが完全に納得していないとしても、観客を魅了し、感動させることができる。作品に注ぐ気持ちに、嘘はない。

納得できない、満足しないという感覚は、次のステップへの大きな原動力にもなりうる。却ってそれがないと、未来につながらないかもしれない。常に完璧を追い求めつつ、けれど完璧を出せない悔しさの連続によって、技術は目覚ましい進歩を遂げる。
「神」と呼ばれているクリエイターの誰しもが、そういう葛藤の中で次第に大きな存在になっていったのだと、私は信じたい。

優れた能力があるのに、プレッシャーのあまり潰れてしまうクリエイターも、きっと少なからずいることだろう。それを回避する意味でも、妥協点を探る訓練をするのも、大事なことなのではないか。
悩んでいても解決しないなら、とりあえず表に出してみる。最近はTwitterで簡単に拡散されるし(フォロワーがいない、少ない場合は運要素が大きいが)、それで悪くない反応を貰えたら、より一層のモチベ―ジョンにもつながるから、誰かに見てもらうというのは大切なことなのだろう。
……と言いつつ私は今のところ、この誰も見ていないブログでしか日々の絵を公開していないので、説得力はないわけだが。この数か月、以前に比べてラフはかなり描いているけれど、ちゃんと最後まで描けた絵がほとんどないから、pixivやTwitterはしばらく更新できていないままだ。十月からは、どうにか再開させるつもりだけれど、特にTwitterはなかなか反応を貰えていなかったので、今のところモチベーションにはなっていない。

まぁ私なんて、技術的にもまだまだだし(伸びしろは無限!)、何も成果を出していない初期アバターみたいな存在だから、こんなことを語る資格はないかもしれない。ただ、他人事ではないと思うのだ。
クオリティと向き合う気持ちは、創作に取り組む限り際限なく湧き出てくるものだから、むやみに否定しても仕方ない。うまく利用してやる、くらいの気構えでいたいところだ。

 

 

Drawing om 2020-07-20

20200720

衣装のデザインってどうやったらできるようになるんだろうなぁ。
某ソシャゲのイラストとかで勉強するのはアリかもしれない。