K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生きがいだけが生きがい

一見無意味に思えるトートロジーでも、言葉にしてみると意外とハッとさせられることがある。某政治家はその発言によって、ギャップ的な面白さからネタ枠のような扱いを受けるに至ったが、中には本質を突いた言葉も少なからずある。言葉を繰り返すのは、意味の点検作業だ。連綿と唱え続けることで、やがてストンと胃の腑に落ちる。

生きるエネルギーを与えてくれるもの。惰性の生活から抜け出すための鍵。それがなくても生命が絶たれることはないけれど、それがないと生きる意味を見出すことが難しい。
文字通りだ。生きがいのない人生はつまらない。

 

 

生きがい搾取なんて言葉がある。あれは、ひどい。乳やレモンを絞るのとは違う。人間は喰ったって美味くないぞ。実は旨いのかもしれないが、うまいものは身体に悪い。常識だろう。共食いをすると頭がぶっ壊れるんだ。

翻って、搾取される側はどうだ。その時点で、生きがいは生きがいでなくなる。
搾取というのはつまり、生きがいを感じるはずの事柄に絡めて、その人間のエネルギーを一方的に奪う行為であるから、やられたほうにとっては生命力の収支がマイナスになる。一方的に犯されるのと大差ない。一度経験してしまったら、その環境を脱しても、かつてのように生きがいと思うことはできなくなっているかもしれない。
人間は雑巾ではない。絞って役立つようには、作られていないのだろう。

 

生きがいというのは生命力の供給源であるがゆえに、自らの芯に近い部分に散らばっている、という考え方をしてみる。すると、自分と生きがいとの間には、決して他者を介在させてはならないのではないかと思えてくる。生きがいは、極めてプライベートな存在だ。
そういう意味で、自らにとって大事なものや好きなもの、生きがいとなり得る事柄に関連して、他者とのコミュニケーションが発生する場合には、線引きが重要だと考える。安易に相手の侵入を許して、生きがいを変容させてしまわないように注意しなければならない。本質的に、不可逆的なのだから。

他方で、そういった人付き合いから新しい生きがいが生じることだってある。
この人と遊ぶ時間は楽しい。一緒にいること自体が尊く感じられる。それがあるから生きていける。
友人や恋人や家族との関係の中では、そういう想いを抱くことが珍しくないだろう。
それは特定の相手とのつながりを含んだ枠組みに対しての生きがいであるから、その場合に注意すべきは、新しい仲間との出会い、あるいは部外者の介入になりそうだ。
環境の変化はいつだって、生きがい崩壊のリスクを孕んでいる。自分の世界を広げて生きがいを増やしていけるのが理想だが、なかなか容易ではない。そこが人生の楽しいところでもあるが。

 

生きがいとは、きっと自分の認識している範囲にだけ存在しているものではない。失われてしまって初めて、それが生きがいだったと知ることだってある。
逆に、生きがいだと思っていたものに対する価値感がひっくり返っても、おかしなことではない。誤解や裏切り、あるいは周囲の変化に適応できず自然淘汰的に瓦解していくパターンもある。想像以上に脆い。
人間だから気分は変わるし、内から生じる欲望のコントロールだって難しい。そこに他者が関わるのなら、なおさらだろう。ひょんなことから敵愾心を露わにして、徹底的に排除しなければ気が済まなくなる。そういう状態に陥った人がインターネットに溢れている。

生きがいがないというのは、かわいそうなことだ。彼らは、生きることで得られる喜びが少ないのだ。そうやって、憐れんで済むだけならいいのだけれど、恐ろしいことに、突如として生きがいが奪われる可能性は誰にでもある。
事故に遭うかもしれない。急に五感のどれかを失うかもしれない。不幸の蓋然性を想定しながら生きていこうとするとキリがないけれど、いざ生きがいを喪失したときに、自分が壊れてしまわない保証がどこにあるだろうか。そんな自信が、どこにあるというのだろう。

生きていると、新たな生きがいを発見することがある。だから、もしなくなってしまっても、また新しく手に入れることはできるかもしれない。ただ、私は思うのだ。それができるのは、精神的に余裕があるときだと。他の生きがいによって支えられているからこそ、見つけることができるのだと。神によって与えられるのではない。自ら見つけなくては。
すべてを手放して虚ろの果てに辿り着いた「心」が、その後どのように動くのか、私はまだ知らない。

 

この先どうなるか不明瞭であるからこそ、今この瞬間に私が享受できる生きがいを存分に楽しみ、生きるためのエネルギーを蓄えていかなければならない。
生きがいに生かされ、生きがいのために生きる。その循環こそが最高に文化的な生活なのではないか。