K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

世界に監視されているという妄想

ただの不運、自分の過ち、判断力不足というのが事実だという前提のもと、それでも苦言を呈したくなるのが人間だと思うのだ。

私の行動は世界に監視されているのではないか。だから意地悪な世の中というやつは、私が動くとそれとは反対側に進み始めるのではないか。
あまりにも後悔ばかりなので、鬱日記が非常に捗る。

 

……具体的な内容を書きたいわけではないので少し難しいが、たとえば賭け事の話だとすると、こういうことになる。
AかBどちらかに賭けなければならないとして、私は最初Aに賭けた。すると、あらゆる指標がBを評価し始める。しばらく待って見ていると、Aの評価は急落する一方だった。しかし私はAを見捨てずに賭け続けた。やがて流れが変わり、Aの評価は元のところまで戻ってきた。次に、再び指標がBを評価するようになったので、私はBに賭け直す。ところが、今度は分析を無視してBが大きく悪化する。Aに上向きの兆候が出てきたので、Bは破棄してAに乗り換えると、今度はAが絶望的な状況に陥る。そして逆にBが元の位置に戻る。完全に負けを認めてすべてを放棄した途端に、死に体だったAが驚くような復活を遂げる。いったい、なんなのだ。

結局、意味不明な文になった気がするけれど、要するに言いたいのは、私の選択はすべてが裏目に出るということだ。
あの時こうしていれば、というタラレバは人生に付き物とはいえ、最近は分岐点で別の選択をしたとしても、世の中は私の行動に逆行していたのではないかと思ってしまう。
これが俗に言う運命ってやつなんじゃないかと、心から嫌になる。

良いと思ってやったことが最悪の結果を招き、駄目だと思っていた選択が実は最善だったなんて、まぁ将棋なんかでは珍しいことでもない気がするけれど、これほど普段から恵まれていないと生きる苦しみに打ちひしがれそうになる。
幸運と不運が交互にやってくる、あるいはバランスよく遭遇できるのならいいのだ。けれど、私はそういう意味で成功した経験がほとんど皆無に等しい。ああ、本当に。いずれ当たりが自分に回ってくることがあるのだろうか。

下手に考えて悩むより、気にしないで生きていたほうが、いつの間にか事態が好転しているということもあるかもしれない。最初からAを信じて賭け続けていれば、結果的に勝利できたのだから。考えすぎる私には難しいことだが。
負けしか知らない私とは対照的に、勝ちしか知らない人間もいることだろう。やはり運は不平等だ。