K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

運は不平等

「運は実力のうち」とかいう言葉があるけど、心から嫌悪している。

 

運っていうのは巡り合わせだとかタイミングだとか、もしくは捉え方次第なんていう……まぁ実体がなくて客観性に乏しくふわふわしていて曖昧な「運」のことはどうでもいい。そんなのは深く考えても無駄だ。

運にはもう一つあって、それは確率の話。
コインの裏表を当てるゲームを続けていけば、勝率は限りなく50%に近づく。そんなのは常識であって、言ってしまえば、確率は誰にでも平等なものだ。
ただ、平等というのは全体から見た場合の話であるから、個人的な体験の範囲においては、非常に不平等であることが多い。

世の中で起こっている、あるいは身の回りに起きる現象には、少なからず確率の問題がつきまとう。その確率に恵まれるかどうかで、人生は大きく変わるんじゃないかと考える。
たとえばソシャゲのガチャにしたって、「運」がいいと単発で最高レアを引き当てることができるし、悪ければ天井まで引き続けなければならない。有償で引くとするなら、ただの確立の偏りによって、出費に大きく差が出てしまう。とても納得がいかない。
長年ガチャを引き続けたら収束するという話は当然あるけれど、本当に収束するまで引き続ける人間は、はたしてどのくらいいるのだろうか。
ガチャなら気軽に引くこともできるかもしれないが、人生において乱数が結果に関与する経験は必ずしも無制限ではない。一回きりしか試せないものだって、たくさんあるだろう。

思うに、確かに確率は平等に与えられているかもしれないのだけれども、実際に結果を伴って自らを導いてくれる「運」は不平等なのだ。
まったく同じ実力なのに、「運」の差によって明暗が分かれるなんて珍しくないだろう。
参加者全員が同じだけの幸運と不運を共有できるようになるためには、人生の出来事というのは、あまりにも試行回数が少なすぎる。そんな偏りは実力でもなんでもなくて、ただ乱数の上振れや下振れを引いているだけなのだと、思わずにはいられない。

 

そういう確率の振れ幅があるからこそ、栄えている文化もある。
麻雀なんてのはその最たるもので、強いほうが必ず勝つわけではないという性質をもったゲームは、かなり中毒性が高い。逆に完全実力主義ではビギナーズラックなんてほとんど発生しようがないわけだから、実力者以外は楽しみにくい。そういう意味では、確率の偏り自体は悪いものだと思わない。
また、ゲームなら試行回数を稼ぎやすく、しばらくやっていたら乱数が均されて実力通りの成績になることが多いから、不満もあまりない。

それでも、日常で直面するあらゆる確率的な結果に向き合おうとすると、やっぱり運はクソだとしか思えない。確率が絡む大きな選択において、乱数に恵まれて7割とか8割を勝利で終える人間もいれば、その逆の人間もいると思うのだ。300年も生きれば5割に落ち着くかもしれないが、現実には不可能なわけで、その差は埋めようがない。

まぁ人間は、同程度であれば幸福よりも不幸をより大きなものと捉えるらしいから、もしかしたらこれも主観的な勘違いに過ぎないのかもしれないが。