K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

腱鞘炎

何をするにも、だいたい手や腕って必要なものだけれど、長時間使い続けていると、中にある神経だか筋だかがイカれてしまうもので、私は一年ほど前から痛みに悩んでいる。
痩せ型で筋力がほとんどないこともあって、肉体労働はもちろんのこと、事務作業ですら手への負担が大きく、いとも容易く壊れてしまうから、注意しなければならなかった。

 

腱鞘炎の何が問題かと言うと、文章にせよ絵にせよ、手が使えなければ話にならないということだ。商売道具であるわけだから、もし怪我をしたり動かなくなったりしたら、わりと人生に大きな影響が出かねない。特に絵に関しては負担が大きく、作業が長引くと痛くなってくるのは当たり前だから、できればそれ以外の時間においては大事に扱いたい気持ちがある。

昨年、会社でちょっと面倒な、それでいて機械的な仕事を振られた。動作を客観的かつ端的に言ってしまえば、延々とクリックを繰り返すだけの作業だった。
簡単に聞こえるけれど、クリックの回数が半端ではない。一日だけなら腕が多少疲れる程度の大した仕事ではないけれど、それが数時間、連日にわたって続いていると、次第に手首がおかしくなってくる。気づいたときには、ちょっと捻るだけで激痛が走るような腱鞘炎に陥っていた。

なんというか、マウスの耐久試験をしているわけではないのに、ずっとカチカチしなければならない自分自身に虚しさを覚えたし、思えばあの頃からだったような気がする。こんなのやってられないと、別の道を模索しようと考え始めたのは。
そういえば、それからしばらくしてマウスがチャタリングを起こすようになったので、負荷は相当なものだったらしい。やっぱり人間がやるような作業ではなかったのではないかと、今でも思っている。

湿布を貼ったのなんて、あのときが初めてだった。ひんやりとした感触と、薬剤のような鼻孔を刺激するにおい。小学校のときに訪れた保健室を思い出す。臭いと言う人がいるけれど、私はそれほど嫌いにならなかった。
毎日、寝る前に湿布を貼る。起きたときに治っていることを期待する。本当に効いていたのかは微妙なところだった。まったく無意味ではなかっただろうけれど、実際のところ、痛みを意識しなくなったのは手の酷使が求められなくなってからだった。
気休めとして湿布は大いに役割を果たしてくれた。けれども、一度腱鞘炎になってしまったら、簡単には元に戻らないのだと思った。あるいは、もしかして一生この痛みと生きていかなければならないのだろうか、と思ったかもしれない。

以降、現在までのところ、安静な日々を送っていれば問題が発生することはない。幸いなことに、普通にしていれば以前と同様に、特に違和感もなく過ごせる。ただし、ちょっと過度な負荷がかかると、途端に手首の周辺に痛みが出てくるようになってしまった。
こんなもの、もっと肉体的に逞しい人間ならまったく苦しむことはなかったはずだし、痩せていて力がないのは自分の生活習慣に起因するところが大きいから、まぁ労災と表現するほどの大ごとではないと思ってはいる。適宜、休憩を挟んでいれば、そもそも痛くならなかったかもしれないし。
ただ、これが一生残り続けるとしたら、会社によって受けたキズというネガティブな意味で、忘れることはないだろう。
絵を描いていて痛くなるのなら、納得できるのだ。くだらない作業をさせられて、今後の人生を豊かにするはずの貴重なリソースがダメージを受けるのは、本意ではなかった。悲しいなぁ。

 

昨日の眼の話にも当てはまるけれど、ここにきて不健康な生活の結果が如実に表れてきている気がする。環境が変わったら、本格的に運動も始めようかと、思ったり思わなかったり。
これも他のあらゆる「予定」と等しく、考えるだけならタダなのだ。あいにく、実行できるかどうかを決めるのは、今の私ではない。