K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

不安の形はそれぞれ違っていて

一般的な体重計で測れる体脂肪率って、どうして5%が下限なのだろう。たまに5%以上で表示されることもあるから、だいたい5%というのは合っていると思うのだけれど、下限値が設定されているのは技術的な問題なのだろうか。
一日に500歩も歩かないような生活をしていても体重に変化が見られなくなったので、そろそろ普通にしていて痩せられる限界まできた感じがある。ただ、先日も書いた脚の痛みがいよいよ無視できないレベルになってきているため、歩行能力の低下が心配だ。

 

心配と言えば、人によってはニートみたいな生活をしばらく続けていると、「何かしなくてよいのだろうか」という不安に襲われることがあるという。それが却ってストレスになって、長続きしないのだとか。
私の場合は、あれをやりたい、これをやりたい、などと考えていることはいくつもあるけれど、特段すぐに実行しなければならないという意識はなく、何かに駆り立てられるような状態にはならない。気分と調子が上向いてきた時を狙って動き出せばよいと思っている。きっと、本質的に怠け者なのだ。
もちろん、かつて一度経験した時のように、何も目標を持たず日々の時間を浪費するだけの生き方とは違う。今の私には達成すべき課題が山積みで、だから何にもとらわれていないというわけではない。ただ、一朝一夕でどうにかなる話でもないため、マイペースで、しかし若干の計画性をもって、という感じになる。

思考回路の健全性は無視するとして、頭の働きそのものは比較的健全だから、たっぷりと睡眠を取った後などは自然と活力が湧いてくる。アニメや小説などの創作世界に浸る際にも、物語の構成だけでなくキャラクターの動かし方や演出に注目して学ぼうと思えるし、Twitterで優れたイラストを見たときには、その作画工程について考えを巡らせる。音楽を聴けば流れてくる音色の一つひとつに注意を向けて、構成要素を分解して理解を深めようとする。
睡眠とは集中力を引き出すための、最も効率のよい手段だ。
だから私は、眠気を感じたら逆らわずに眠ることにした。時間は関係ない。もはや生活習慣など、正常に社会生活を行うための枷でしかないのだ。当分の間、そんなものに拘束される意味はないのではないか、と思ってしまった。
これは実験に過ぎない。生活習慣を正すことが、あらゆる行動の結果に寄与すると判明したならば、すぐに改善することとしよう。今は身体の生理的な指針に従って日々を過ごしてみて、どうなるのかを確かめるターンだ。こんなこと、外部から時間的・身体的に生活の方針を制限されている普通の人間にはできないことだ。今の私だからできること。大した意味はないかもしれないが、無意味ではないと思っている。
来月の半ばから始まるであろう新しい生活では、この結果を取り入れて自分に合った時間の使い方ができれば理想的だ。

 

一方で、私の身体に対する不安は絶えず蓄積されていく。数か月前から感じる原因不明の動悸や、手を中心に走る瞬間的な激痛、行動に制限を与える関節痛など。
とりわけ膝関節については先週あたりから顕著で、何をしていても苦痛を覚える。不自由を感じる。痩せているというだけで、運動しないというだけで、これほど脆弱になってしまうものなのか。以前の引きこもり生活では特に気にならなかった不調が出てきているのは、その分だけ年を取ったという証だろうか。悲しいけれど、肉体の質は確実に落ちているのだと実感させられる。

先週から毎日10話程度のアニメを見ているため、それが原因の可能性がある。座りすぎて、脚が硬直してしまっているのかもしれない。姿勢の問題でもあるが、膝に負荷が集中しているのだとしたら、一時間に一度は立ち上がるなどの軽い運動を取り入れてみよう。解消されればよいのだが。
正直、脚が痛いというだけで集中力の半分くらいを持っていかれてしまうので、これが続くとなると非常に困ったことになるのだ。文字にしたら大したことではないけれど、これは手の痛みと同様、死活問題となる。

体力がないから、運動は長続きしない。胃腸が弱いから、過剰に摂取しても意味がない。
痩せすぎの人間が健康的に生きられる手っ取り早い方法は、何かないだろうか。