K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

走れない

あまり眠れた気がしない早朝、もそもそと布団から出て顔を洗い、冴えない頭を起こすためにジャージに着替えた。
一か月前と比べたら多少は脚に筋肉が戻ってきた自覚があるし、慣れた歩き方ばかりでは大きな効果が見込めないかもしれない。だから、今日はちょっとだけ走ってみよう。
己の体力がどれだけ落ちているのか十分に理解できていなかった私は、特に準備もせずに駆け出した。

 

ランニングというほどのものでもない。明確な違いはよくわからないが、ニュアンスとしてはジョギングに近い感じで、軽い走りのイメージだった。
流石に3.8kmの散歩コースを、いきなり走りきることはできないだろうが、半分くらいは行けるかもしれない。そんな甘い考えは数十秒もしないうちに打ち砕かれる。
走り始めてから400mほどを過ぎたあたりで、もう限界を感じてしまったのだ。これ以上は走り続けることはできない。無理をしたら、歩くことさえままならなくなる。
その瞬間に直感した。ああ、走れない身体になっている、と。

いくらハイペースのウォーキングに慣れてきたとはいえ、歩くことと走ることは、根本的に異なる行為だ。大きく負荷がかかる筋肉は違うだろうし、同じ筋肉でも使い方が変わってくる。
短い時間のうちに、急激な疲労を脚に感じた。瞬時に息は上がり、呼吸が激しく乱れる。この反応は、身体が長距離の走り方を完全に忘れていることを示唆していた。

立ち止まることはなかったけれど、すでに疲労困憊の状態で歩行に移ったわけで、その後はいつものペースというわけにはいかない。
どうにも脚の感覚が鈍く、本来の歩き方さえ忘れてしまったかのような、覚束なさがあった。
変わらず息は苦しく心拍数は非常に高い。大した運動量ではないはずなのに、これほど急転直下で調子を崩すとは思っていなかった。
過去にも何度か引きこもりの末に体力低下を招いたことはあったけれど、軽く走ることすらできなくなることはなかった。ひょっとして、これが年齢を重ねるということなのだろうか。


道中、信号に引っかかりそうになる度に、間に合うようにダッシュを試みた。しばらく歩いていたら徐々に状態は落ち着いてきて、一瞬であれば走れそうに思えたのだ。
しかし、やはりすぐにバテてしまう。
そんなことを繰り返していたら、肺の辺りに苦しさというか、鈍痛のようなものを感じ始めた。いよいよ、肺が限界を訴えているのかもしれない。
私はもう、走ることよりも安全に帰宅することに目標を切り替えて、とにかく息が長続きするようにペース配分に意識を割いた。

慣れたはずのウォーキングが、苦行そのものになっている。急に走ろうなんて思ったのが悪かったのだ。身体が受けたダメージは想定を超えているだろうし、当分はまともに動けないだろう。
家に着く頃には、すっかり気が滅入ってしまっていた。

ふと時間を見て、不思議に思った。いや、不思議でもなんでもないのだろうが……バテバテになりながらも何度か走ったというのに、帰り着くまでに要した時間が普段の散歩とほとんど変わらなかったのだ。若干、数分だけ早かった程度で、体感よりも誤差に近い。
止まることはなかったし、頑張ってペースを落とさないように歩いたというのに、これではほとんど走る意味なんてないのかもしれない。
走ったところで時間の節約にならない上に、余計に体力を浪費するだけだとしたら、走ること自体にはなんのメリットもない。運動目的で、長続きさせたいのであれば、ひたすら歩行に徹したほうが健康的のような気がする。

まぁそんなわけで、少しショックな出来事ではあったけれど、散歩自体は三日後の朝にも実施するつもりではある。
今度は絶対に無理をして走らない。いつも通り、運動不足解消と脚の筋肉のために、マイペースで歩ければいい。
私はもう胸を張って若いと言える年齢ではなくなってしまった可能性があるし、そうでなくとも痩せすぎなのだから過度な運動は普通の人よりも負担が大きいのだ。
いずれ走れるようになるとしたら、少なくとも体重が二年ほど前の水準まで戻ってからになるだろう。