K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

未来感ある

2020年も四分の三を過ぎて、もう年末も近くなってきたというのに、いまだに2020という数字に何か大きなものを感じる。
ようやく慣れてきたところではあるのだけれど、一月や二月の頃は、それはもう現実感のない話だった。

 

再アニメ化された『ひぐらし』を見て、カレンダーに示された西暦の数字が目に入って驚いた。そうか、こんなに昔の時代設定だったのか、と。
変わらない声優陣に安心感と懐かしさを覚えつつも、話の大筋を知っているからこそ注目するポイントがあるという意味では、他の新しく作られる作品とは根本的に視点というか、視野が違う。そのため、ふむふむ、という姿勢で見ることになって、なんだかそれが慣れていないことだから面白い。たまには、こういうのも悪くないと感じた。

ちょうどブームになっていたのがゼロ年代の後半だから、当時でも古臭さを感じる田舎描写が満載だった気がするけれど、それから既に十年以上が経過しているわけで、あらためて見ると本当に「昔」という感覚が強い。
だって、今は2020年なんだ。ああ、なんて未来なんだろう。

 

2010年だって今と同じようにしっかりとした思考能力を持っていて、時が経つのは速いなぁと少なからず感じていたはずだけれど、しかし今年ほどの特別感とか圧倒的に将来の出来事であるような、不思議な気分になることはなかったように思う。十年前は、他と変わらないただの一年だったのだ。
なぜだろうと数か月前から原因を考えているが、いまだに明確な答えは出ない。

思うに、十年前は私も青春時代真っ盛りの年頃で、いわゆる多感な時期というやつだったのだろう。外界から受ける毎日の刺激が今とは比較にならないレベルで、一年間に起こった出来事を情報豊かに吸収していた。だから、時の経過というものに納得感があったのだ。私の中に着々と築き上げられた時間に対する感覚は当時において等倍で、ゆえに然るべきタイミングで違和感なく2010年を迎えることができた。
一方で、今は見方が変わってくる。2010年代の後半、特に過去二年ほどは、これまでと明らかに様相が異なっていた。直面した出来事を仔細に記憶したり、まるでゲームのレベルアップかのように日々の時間を噛み締め経験値を蓄えたりすることは、容易なものではなかった。かつてのように健全な心で生きていくには、あまりにも息苦しかったのだろう。それなりに新鮮さはあったけれど、結果的にそのほとんどは今の自分を構成するには手に余るものだった。正直なところ、大雑把な印象ばかりが強烈に残りすぎている。だから、そう、気づけば2020年になっていた、という説明がここでは適当なのだと思う。

私の知らない(あまり意識できていない)ところで、随分と私は将来に生きてしまっている。ちょっとしたタイムリープを味わった気分に近いかもしれない。特殊な機械を使わなくても、意識のうえで人間は時を越えることができるのだ。あまり気持ちのいいものではない。
時間を軽視しすぎたのかもしれない。これからは、今を生きる私の時間への認識を蔑ろにしないように、少しばかり「エピソード」に注視してみようかと思う。
そしてどうやら、毎日必ず日記を書くというこの試みも、それに一役買ってくれそうだ。