K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

涙腺

感動する物語に触れたら涙が出る、というのは当たり前のような話だけれど、同じものを見ても無反応の人もいれば、嗚咽を堪えきれなくなるような人もいて、人の感性ってなんだろうと思う。
別に他人と比較する必要はなくて、過去の自分と現在の自分でもいい。同じ作品に対する感情の揺れ幅というのも、随分と違いがあるものだ。

 

最近……いや最近というのは範囲が広すぎるので、過去の二年ほどと言ったほうがいいだろうか、このところ私の涙腺は非常に脆い。
昔であれば涙を流すことなんてなかっただろうと思われる物事に対して、いとも簡単に泣けてしまう。
悪いことだとは思わない。けれど、自分の感性をこのままにしておいていいのだろうかという、ちょっとした疑問がないわけではない。

感動作品というのは時が経っても色褪せないもので、たとえば過去十年のうちに見て泣いた記憶のある作品をリピートしたとしたら、また自然に涙が溢れる自信がある。
ただ、三年くらい前に感じていたのは、最近は泣ける作品が少ない、私の感性は鈍化してしまったのではないか、ということだった。
2010年代前半と後半では、明らかにコンテンツに触れた際の自身の反応が異なる。これはコンテンツ全体の質が変わったのか、私の目が肥えてしまったのか……その答えはいまだにわからない。
一つ言えるのは、不思議なことに今は真逆の状況になっているということだ。

以前であれば、これほど感銘を受けることはなかったであろうと思うことが、間違いなく増えている。アニメだけであれば流行の変化や映像・演出的な観点で技術の向上があり得るから、より感動しやすくなったと考えることもできるけれど、この涙脆さの実感は対小説においても起こっているのだ。
私はいつの間に、すぐに泣いてしまう人間になったのだろう。
もしかしたら、精神的な余裕が生まれたとか、創作世界に心から浸れるだけの環境が出来上がってきたとか、まぁ適当に理由を付けることはできる。実際それは事実としてあるので、否定はしない。ただ、本当にそれだけなのだろうか……という疑問は拭うことができない。

私は、まさに二年くらい前から本格的に意識を切り替えた。何に、という話になると、クリエイティブな方向に、と答えるしかないのだが、ともかく普通のユーザー、ただの視聴者でしかなかった心構えから、制作者サイドに寄せて考えるための視点を持つようになったのだ。
作品を、単なる表面だけでなく内側から理解しようと働きかける試みが、コンテンツに触れている間に不断に発生する。それは図らずも、純粋に作品と相対している時以上に、私に大きな感動をもたらしてくれた。
そんな風に考えることは、あながち的外れではないような気がしている。

唯一の懸念点を挙げるとしたら、別の意味で私の目が腐ってきているのではないかということだ。
つまり、なんでもかんでも感動してしまう。絶賛してしまう。容易に幸せを感じることができてコスパのいい人間という考え方もできるが、これから何かを創ろうとするならば、わりと厳しめの基準も自分の中に設えておきたいという気持ちがある。
素晴らしいものに触れて素直に感動できるようになった、というだけなら理想的だ。けれど、あまり価値がないようなコンテンツにも大きな評価を与えてしまうようであれば、それは今後を見据えるなら面白いことではない。
様々な作品に触れたことで、いわゆる審美眼というやつが無事に磨かれてきたのか、あるいは節穴になってしまったのか。自分自身のことではあるが、それを判断する術はあまりないように思う。

ただ、アニメの感想などを他と比べてみると、それほど筋は悪くないように思うのは一つの事実だ。
世間一般で面白いとされている作品は、私も好ましく感じることが多いし、大バッシングを食らっている作品は、私もつまらないという評価を下していることが多い。
こういう時代なので、勢いのあるコンテンツにはどんどん人が群がるし、金が流入してくる。逆に注目されなければ(注目を集める機会を逃してしまえば)その作品には価値がないと見なされて、それ以降の成長を期待することはできなくなる。

少し前まで、アニメを追い続ける理由として、大きな感動に巡り合うため、と考えていた。
それは今も変わっていないが、より強く思うようになったことがある。素敵な作品に触れることで、私はさらに感性を磨いていきたい。
涙腺が弱くなったような実感について、感性の成長と捉えることができたらよいのだけれど、はたして。