K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

時間の経過速度

昨日の夜、珍しいことにTwitterでRTをされた。
最近はほとんど呟いていないから驚いたのだが、もっと不思議だったのは数年前のツイートだったことだ。検索から見つけたのだろうが、そんな前の呟きをわざわざRTするなんて物好きもいたものだと思う。
内容自体は、当時の生活習慣を反映している部分があったので個人的に少し恥ずかしくなるようなものだったのだけれど、それだけ自分に変化があったという証でもあるから悪い気はしなかった。

 

過去の呟きを遡ってみるのも面白そうだと思って、まだ毎日数回ツイートしていた三年ほど前に範囲を指定して検索してみた。
大半は取るに足らないものでスルーできたけれど、たまにアニメなどの感想を真面目に長文で投稿しているので、つい苦笑いを浮かべてしまう。そういうのはTwitterではなくブログでやれ。
とまぁ、いい具合に三年前のことを思い出してきて、ふと感じたことがある。
え、時間経つの速すぎないか?
出来事によっては、二年前のものよりも直近のような感覚すらあって、どうにも事実と記憶(思い込み)との間にある乖離が年々広がっているような気がしてならない。
四年以上前になると納得できるくらいに「前」という感じがするので、この記憶にまつわるバグは三年前を起点として発生しているらしいことがわかった。

三年前から一年ほど前までの間に何があったかと言えば……これといって原因として断定できるような、衝撃的な体験があったようには思えない。
強いて言えば仕事関連になるのだろうが、はたしてどうだろうか。
部署移動などが短い間隔で立て続けに起こったことは事実としてあるので、環境変化によるストレスなどが影響している可能性もあるだろうか。なるべく思い出したくない嫌な出来事として処理してしまったために、記憶容量上ぽっかり空いた分が圧縮されて実際よりも短く感じられるようになったとか。

あれは、ちょうど三年前の三月のことだった。中期的な休みが見込めて、四月からは忙しくなるだろうという見立てができた時期だ。同じ状況下に置かれたら、人によっては海外旅行をするという選択肢もあるのかもしれない。当時から引きこもりがちだった私は、真逆の方向性に時間を使うわけだが。
幼少期には誰しも親しんで見ていたテレビ番組があるはずだ。最近はそれがYouTubeなんかに取って代わられている可能性は大いにあるけれど、いずれにしろ子供の退屈しのぎになる映像コンテンツとの触れ合いというのは、ある程度の普遍性を持った経験なのだと私は考えている。
十年とか二十年とか、すっかり幼心を失った後にそれらの映像を見返してみると、昔のことを懐かしんだり当時は気づかなかった視点を持つことができたりして、たとえ子供向けに作られていたとしても案外、楽しむことができる。三年前の私は、まさにそれだった。

具体的な作品名を出すとTwitterのアカウントを特定されてしまうかもしれないので避けるけれど(もちろん誰も興味がないのはわかっているが念のため)、某特撮番組だった。今でも日曜の朝にやっているやつだ。
たっぷりと余裕のある時間を使って、第1話から最終話までの50話ほどを、十日くらいかけて視聴する。とても面白かったし、幼いあの頃に出会っていてよかったと思えるくらい深みのあるテーマを持った名作であることを知った。
今や戦隊ヒーローものは必ずしも子供向けではなく、大の大人が十分に楽しめるだけの中身が詰まっているのだと、詳しい界隈からすれば常識にさえなっているかもしれない認識を自ら実感することになる。

さて、幼き日の思い出は、こうして忘れにくいエピソードとしてあらためて記憶にしまわれたわけだけれど、既にそれから三年が経過しているという事実に私は困惑を隠すことができない。
つい数か月前……とまでは言わないが、体感としては二年くらい前なのではないかと思わずにはいられない。三年前なんて、そんな……まるで2018年か2019年の出来事がまるまる自分の中から消えてしまったような、そういう不思議な感覚なのだ。
新しい場所に入って、初めは慣れないことばかり。刺激的で、面白さ半分、つらさ半分という日々は、振り返ってみると充実感があって具体的なエピソードに富んでいて、体感以上の中身があったと思うことができる。
しかし、次第に慣れてくると日常は色褪せるものだ。基本的に決まったタスクをこなすだけ。真剣に頭で考える機会が減少するから、ただ機械的に生命活動を続けていくだけで、記憶に残るような厚みが生まれない。三十年後を予想した時に頭に浮かぶのは、表向きにはそれなりに裕福でありながら内心では巨大な後悔と絶望感を抱える自分の姿だった。その私は、結局のところ何も成し得ていない。
まぁ長い目で見ると、会社員なんてそれが普通なのだろうから、仕方ないと言えば仕方ない。中途半端に地頭がよく能力が高いから、省エネスタイルで適当にやっていても平均以上に成果を出すことができたし、今後も惰性で続ける選択肢はあったけれど、やはり本質的な意味で私には致命的に合っていなかった。

もっとも体感時間という話をするなら、人生の転機を自ら作り出すことを決断し一人暮らし開始となった昨年十月から既に四か月以上が経過しているので、こちらも感覚的には過去の様々な出来事と比べて随分とスピーディなものだ。
毎日、家にこもっているせいで刺激が少ないというのもある。その点についてはもう少し経ったら解消される見込みなので、今年は生きるのが比較的楽しみではあるのだけれど、楽しければそれはそれであっという間に過ぎていくから考え物だ。

嫌なことは短期的には長く、長期的には短い。
楽しいことは短期的には短く、長期的には長い。
振り返ってみて、経過した時間の分だけ振り返る内容があれば、それは幸せと言ってもいいだろう。私の人生は、そうであればいいなと思う。