K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

衰えを知って

キーンという、耳への刺激で有名なモスキート音だけれど、年齢を重ねるにつれて高音域が聞こえなくなってくるという。
学生の頃に試してみたことがある。その時は確か、18000hzまで聞こえていた。一般的な十代のレベルなので、まぁこんなもんかと思うだけで特に印象には残っていなかったのだが、本日ふと気になったので久しぶりに試してみることにした。

 

モスキート音なんてYouTubeにいくらでも上がっているから、どれでもいいかと思ったのだけれど、聴き比べてみたところどうにも動画によって差がある。エンコードの違いなのか、再生環境の問題か……一説によると高音域はカットされているとかいないとか、なかなかコレという基準を判断するのが難しそうに思えた。
というより、何が問題かと言うと、YouTubeに上がっている動画では15000hzよりも高い音域がまったく聞こえなかったのだ。私の耳が悪くなっているのか、音源が悪いのか、やや自信を失いつつも、他のサイトでも試してみないとわからないだろうと、YouTubeは閉じることにした。

結果から言えば、当たり前のことだが私の聴力は落ちているようだった。年齢相応かは微妙なところで、聞こえているような、あるいは気のせいなのか……という風に確信を持てない音域があって、やはり音源による差があるから断定が難しく思えた。
というわけで、暫定的な判断としては複数サイトで比較してみて、中間を取ることにする。
最大で17000hz、最低で15000hz。ゆえに、16000hzくらいが妥当なところだろうという結論に至ったが、やはり18000hzが聞こえないのは残念だった。

そもそも、学生時代に試した時にはYouTubeを使った覚えがあるので、それが聞こえなくなっている時点で衰えがあることは自覚すべきだった。けれど、やはり悔しいので認めたくなかったのだ。
コメントを見ていても、聞こえるという人がいるのだから音源から機械的に取り除かれているということはなさそうだし、素直になるべきなのだろう。私の耳は悪くなった。

あの頃、親にモスキート音を聞かせてみて、聞こえないという反応が返ってくるのがおかしかった。こんなに煩いのに、聞こえないなんて。年を取るとそんなことになるのかと、どこか他人事のように思っていたのだ。
それから何十年が経過したというわけではないけれど、その時には問題のなかった音域が今では聞こえなくなっているという事実を前にして、私は老いという現象を認めざるを得なくなった。
いつまでも若くはいられないし、そのうち健康を損ねて元気や活力がなくなっていく。その本格化はまだまだ未来の出来事かもしれないけれど、しかし確実に自分の身にも起こることなのだ。
せめて、まだ若いと言える今のうちに気持ちの準備だけでもしておいたほうが、急激な衰えに直面した際に狼狽せずに済むのではないかと思う。とうとう来たか……ならば、こうしよう。そんな風に冷静な選択ができれば、きっとギリギリのところで幸せを保つことができるだろう。

耳に関しては日常生活でイヤホンを着けている時間が長いし、多少は衰えが進むのは仕方ないと思うのだ。今さらスピーカーから聞く習慣なんて身に着けるのは無理な話で、このまま人並みに力が落ちていくことは受け入れなければならない。
視力も似たようなものだろう。PCの前に張り付いているような生活だから、そのうち近視はもっと進むし、いずれ老眼に悩まされる時代を迎えるかもしれない。
肉体については……もしかしたら既に劣化しまくっているのかもしれない。引きこもりすぎて筋力の低下が著しく、二年くらい前と比べても随分と細くなった印象がある。このままでは、還暦を待たずに動けなくなりそうな勢いだ。現状維持のための運動は……暖かくなったら再開していこうとは思っている。

 

二十代の前半が肉体能力の天辺というのは、どうやら本当のことらしい。今は年々、少しずつ不具合を自覚し始めている時期で、これからはその感覚が拡大していくことだろう。
まだ四十代や五十代の自分なんて考えられないし考えたくもないけれど、生きている限りは経験しなければならないわけで、世の中の中年を見ていると気が滅入る。
今でさえ能力の低下にうんざりしているのだ。どんどん老いていく自分の姿に、その頃になって耐えられるのかどうか……とまぁ、やや不安はあるけれど、結局のところその時々の「今」を全力で生きるだけなのではないかとも思う。
幼い頃に今は想像できなかったし、今から幼い肉体に戻ろうとは思わないのと同じことで、ただ目の前にある現実だけがすべてなのではないか。
だから私は、今日のショックは今日のうちに消化してしまうことにする。

ちなみに知識や技術は年老いてからでも、いくらでも伸び代があるのは先人が証明しているから、願わくば私はそこに生きがいを見出したい。