K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

黒歴史の扱い

部屋を整理していると、埃だけでなく様々な物品との出会いがある。
それは主に、今の生活では一切必要とされない、「昔の私」との関わりが深いもの。場合によっては、黒歴史に認定したくなるくらい恥ずかしい代物だって、時には見つかるかもしれない。

 

たいていの物は、数年前の自分ならどう判断したかわからないけれど、今の私にとっては必要がないから躊躇なくゴミ袋に放り込んでしまえるガラクタばかりだ。その際、こんなものがあったなぁと多少の感慨に耽ることはあるにせよ、心残りのような感情はあまり芽生えない。
幼少期のお気に入りであったり、まるで記憶にないアイテムだったり、あるいは前回の転居のタイミングで捨てなかった理由がわからないものだったりと、ほとんどは取るに足らないもの。ただ、それぞれに対して軽視せず余計に頭を働かせてしまうばかりに、どうしても時間がかかる。

しかし、なぜ時間をかけるかと言えば、目的があるからなのだ。
たまに……そう、本当に稀にしか発見しないのだけれど、捨ててしまってよいものか悩む「ガラクタ」と対面することがある。
それは、捨てずに取っておいても今の私に影響を与えるかもしれないもの。他人の目からすればゴミでしかなくても、私にとっては特別な存在感を放っていることがあるのだ。
たとえば、これを再び見ることがなければ、決して思い出さなかったシーンがある。そういう風に考えると、思い出の一部を閉じ込めているようで、なかなか簡単に手放すという選択肢は選びにくいものだ。
まぁ人生とは、そんなものかもしれないが。
今の今まで忘れていたことなんて、人生から切り離してしまっても問題ないだろう。思い出したからといって、何かに活用できるわけでもないのだから。
そうやって自分を納得させて、ゴミとして袋に放り込んでいく。

ただ一つだけ、捨てようという勢いをどうしても押しとどめる力がある。それは、いわゆる黒歴史に近い存在だ。押し入れや抽斗や段ボールの奥底に幽閉されてから何年もの月日が流れていても、独特のエネルギーを放っているような気がしてならない。
何が魅力的というわけではないし、むしろ恥ずかしいから直視するのが苦痛でさえあるにもかかわらず、今さらになって心を掴まれるような感覚。きっとそれは、もはや私が持ち合わせていない感性を材料としているからなのだろう。捨ててしまったら文字通り、一生巡り合うことはできない。
あれは、あれらは、私が生きてきた証であると同時に、かつての私の創造力や思想を反映した唯一の遺物なのだ。だからこそ他のガラクタとは違って、刹那的な判断による棄却ができないのだろう。その価値を見定めるには、数年単位でもうしばらく時間が必要なのかもしれない。

ふと思った。
黒歴史というのは、私が成長する過程で少なくない労力かけて生み出した、人生の宝物なのだと。
実際のところは思いきって捨ててしまってもいいのだけれど、どこか心に引っかかるところがあるのなら、ある意味で呪いとして、もうしばらく持っていてもいいのではないかと。
まぁそんなことを言っているから、いつまで経っても片付かないという現実がある。あえて目を逸らしてみたくなったが、このままでは死ぬまで懐に抱えていそうで、それはそれで嫌な気がした。
宝物とはいえ、価値観が変わればいずれは芥として果てる運命だろうし、そのうち少しずつ不要な物として減らしていくとは思っている。