K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

楽しみの差

ふと思ったことなのだが、私は人生の楽しみが平均的な人間に比べて少ないのではないだろうか。世の中の平均なんて知ってことではないけれど、おそらく普通の人が楽しみにしている何気ない日常の営為について、私は取り立てて喜びの感情を抱いていないように思ってしまう。
その分、一つの事柄に対して得られる幸福量が濃い気がするので、案外バランスは取れているのかもしれないが。

 

たとえば、食事は最もわかりやすい例だ。私にとって食事とは、健康体を維持するための栄養摂取に他ならない。好きな食べ物、なんてものは具体的には何もなくて、強いて言えば嫌いでない食べ物、となる。
食事へのこだわりが希薄なのだ。生活している中で、あれが食べたいなんていう欲望は滅多に出てこないし、どちらかと言えば、何か食べなければならないのが面倒くさいと感じるくらい、「どうでもいい」行為だと思っている。他人と行動を共にしている時は相手に合わせるので、そんなこと絶対に口にはしないけれど、内心では食べられればなんでもいいと考えていることがほとんどだ。
食事が一日の中で最大の楽しみ、なんていう人は珍しい存在ではないだろう。私には、よくわからない感情だ。

他にも、風呂に入るとか運動をするとか、ありふれた行為だけれどそれを楽しみにしているという人は多いはずだ。長年の学生生活の過程では、同年代の人間と旅行をして一緒に寝泊りをするという経験が何度もあった。その度に、ああ彼らはこんなことで充実感を得られるのか、としばしば考えていた。
私がそういうイベントで唯一、心から楽しいと感じられたのは、ゲームで誰かと遊んでいる瞬間だけだった。トランプをはじめとしたカードゲームでも、ボードゲームでも、あるいはスマブラマリオパーティのようなゲームでも、とにかく夜通しかけて面と向かって遊戯に熱中するのは至上の喜びだった。それ以外には、何も要らないというくらいに。
あいにく、私の内なる感情とは裏腹に体力は持たないし、周囲の人間も具合のいいところで就寝へと向かってしまうから、ほんの刹那的な快楽でしかないのが常だったのだけれど。

嗜好品について言えば、私はタバコは吸わないし、というか嫌いだし*1、家で自発的に酒を飲むことも基本的にはない。これはアルコールを飲むことで得られるメリットよりも、身体に不調をきたすなどデメリットのほうが大きいから楽しい行為だと感じられないという、単純な話だ。飲み会など他人と会う場で飲むのは、それがコミュニケーションにおいて比較的好ましい効果を発揮するからであって、好きで飲んでいるわけではない。まぁ酒に関しては、似たような考えの人も少なくないとは思っている。
食事もそうだが、身体に何かを取り込むという意味では、私は非常に幸福レベルが低い。鈍感なのか、それとも捻くれているだけなのか。

 

数少ない楽しみとして認識しているのが、アニメや小説などの物語に触れること。創作の世界に浸って、ストーリーを味わう喜びはこの上ないものだ。
あるいは自らの想像や妄想を形にすることも、同様に幸せなことだ。あの達成感と充足感は何物にも代えがたい。
ゲームで遊ぶのも、ジャンルにはよるけれど好きになる場合が多い。ハマったゲームは一週間で60時間近くプレイすることもザラにあるし、今年も何度か経験済みだ。

生きる道中にある喜びの種類が少ないからこそ、たまに出会える特異な事象に対しては異常な執着や集中力を見せる。それが私の基本的な性質であり、魅力であり欠点でもあるのだろう。社会不適合者の典型例と言われたら、否定はできないところだ。
せっかく「同志」を見つけたと思っても、どうにも温度差を感じるようなことが多いのは、私の視野が極めて尖っている……いわゆる深く狭く、というやつに陥っているからなのかもしれない。最近は視野を広く持つように心がけていることが多いけれど、結局のところ自分に合わないと判断すれば躊躇いなく切り捨ててしまうし、逆に深入りしすぎて却って視野狭窄が進んでしまうなど、根本的な性質に抗うのは簡単ではない。

もし私の取扱説明書なんてものがあったら、解読できる人間はきっと私しかいないのだろう。本末転倒でまったく愉快な話だ。

*1:ちなみに路上喫煙者だけは、どんなに惨たらしい死に方をしても心が痛まないと思っている。死刑だ死刑!