K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

生の実感

久しぶりに外に出た。
どうやらここ数日、自分でも気づかないうちに頭がおかしくなってしまっていたらしい。規則的な三大欲求の崩壊を認識したのは、およそ一週間ぶりに外を歩いてからだった。

 

こういうご時世なので用もないのに外出することなんてなくなってしまったし、寒いから散歩をするのも億劫で、意識的に機会を作らないと引きこもりっぱなしになる。今日のきっかけは、飲料が切れてしまったのでその買い出しだった。
最近よくネットスーパーを利用しているから、食材にはまだ余裕がある。ただ、飲み物は重いから持ってきてもらうのが申し訳ないし、スーパーで買ったほうが安いという事情もある。生命維持という観点で言えば、食材以上に重要なのが飲料であり、しばしば横着して食事をサボってしまう私の行動パターンにおいても、一定のペースで消費していくものだ。

重いから一度に持てる量が限られるわけで、私は一日に何リットルも摂取するタイプではないとはいえ、週に一度か二度は補充する必要がある。基本的に甘いものや酒は飲まないので、お茶とコーヒーと牛乳があれば十分なのだが、特に牛乳は厄介な代物だ。消費期限まで二週間もないのが普通で、まとめ買いするわけにはいかない。しかしシリアルに注いだり、コーヒーに入れたり、卵など他の食材と混ぜて調理に使ったり、なかなかに用途が多彩でいつの間にか牛乳パックが空になっている。
もはや牛乳を買うということが数少ない外出の理由になってしまっているので、この時点でどこか常識的な感覚からは外れてしまっているのではないだろうかと思う。

外を歩いていて感じたのは、思考が活発に動き出す音だった。音というか、頭の中で広がっていく言語を司る領域の波動と言うべきか。寝て起きてPCのモニターと睨めっこを繰り返すだけの数日間には感じられなかった、ちょっと不思議な響き。
それは生の実感だ。生きて、人間として脳を働かせているという紛れもない事実に対する、感覚的な保証のようなもの。それを長らく忘れている間の私は、死んでいるのと変わらなかった。

もちろん、生の実感を想起させる営みは外を歩くことだけではない。どちらかと言えば、他の活動から得ることのほうが多いくらいだ。たとえば、私にとって最も頻度が高いのはアニメを見ることで、その世界に浸っている間は感情が豊かになる。絵を描いているときの楽しみや、ゲームで敵を蹂躙する喜び、あるいは最近は稀だけれど他者と連絡を取り合う際の慎重さなども、私を私であると認識させてくれる。
ただ、それぞれから受け取る刺激は同一ではなく、差があるものだ。最も効果的なのは、身体的な活動に附随する。

私は体力がないので、たとえ一時間足らずであっても、外に出て戻ってくるだけで疲労の蓄積を感じることがある。帰宅後、一息つくともう眠くなるし、せっかく活性化した思考回路は活動を休止させたがり、歩いている最中に次々と湧き上がってきたあらゆるモチベーションは、疲労感と眠気の混沌の中に沈む。
まったく、困った身体だ。
とはいえ、肉体への刺激こそが私の生活における最大の問題点を解決する糸口になりそうだとわかったのは、幸いなことだった。最悪、このまま暖かくなるまでずるずると死んでいくことにもなりかねなかったので、今日このまま寝落ちで終えたとしても、幾分マシというものだ。
それに今日は……バカな思いつきで朝方まで起きていて実質徹夜みたいな状態だったし、その上で数時間しか眠っていないので、わりと現実的に早く寝るべきでもある。明日から諸々の好ましくない状態をリセットさせられたらいいのだが、はたして上手くいくかどうか。