K's Graffiti

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脳汁

脳内麻薬、なんて言い方をすることもある、特定の状況下で分泌される快楽物質がある。
たとえば、ゲームで遊んでいる時に理想的な展開に上手くハマることで、心の中で引っかかっていたストレス要素が解放されて、気持ち良くなることができる。
その瞬間のことを、脳汁が出る、脳汁が溢れる、というような表現をするのだ。
普通の生活をしていたら味わうことは少ないけれど、緊張感のあるゲームや、確率次第で結果が大きく変わるギャンブルにおいては珍しいものではなく、人間を堕落させる最も大きな要因の一つと言っても過言ではないだろう。

 

初めてその存在を自覚したのは、いつだっただろうか。
ゲームを日常的に遊ぶようになったのは小学校の低学年だったけれど、当時はほとんどRPGしかプレイしていなかった。
RPGというのは基本的にレベルを上げれば攻略が楽になるシステムなので、戦闘においてハラハラすることはあまりない。
レベル上げ不足によるギリギリの勝利というものは何度か経験があるけれど、クリアしてしまえば再現が難しいものがほとんどで、独特の緊張感は限られた状況でしか得ることができない。
要するに、古典的なRPGは中毒性が非常に限定的なのだ。

一方で、アクションゲームはそれなりに脳汁を味わえる瞬間が多い。
こちらにもレベルや、攻略が楽になる特技などが組み込まれている場合が多いけれど、ゲームの魅力や本質は自らの技量によって進めていくプロセスにある。
昨日まで勝てなかった相手に勝利する快感は至上のものであり、もちろん慣れたら初回ほどの喜びは得られないにせよ、何周しても自分の操作で敵を倒す気持ち良さは失われない。
記憶が確かであれば、小学校の高学年あたりではアクションゲームも遊ぶようになっていたから、脳汁の感覚を知るようになったのはその頃だったように思う。

中学以降では、追求するものが単純なストーリーよりも徐々に脳汁寄りに変わっていった。
より難易度の高いアクションが求められるゲームや、面白味がランダムで変化するようなゲームを積極的に遊ぶようになったのだ。
モンハンに熱中していた時代もあれば、毎週のように麻雀をやっていた期間もあるけれど、いずれにせよストーリーを追うだけのRPGでは得がたい楽しみがそこには存在していた。

より好むようになったのは、一瞬のミスで命取りになるかもしれないリスクと勝利の喜びの狭間にある、特有の緊張感なのだ。
実際、過去五年ほどの間にハマったのは、ランダムマッチと乱数判定によって毎試合戦況の変わる戦車ゲーや、難易度調整が絶妙な死にゲーであるフロムの作品、すべてが確率次第の運ゲーもとい育成ゲー……というわけで、ゲームから得られる喜びの最大値が爆発的に上がった反面、ゲームをやりながらストレスを溜める機会も昔に比べて格段に増えたような気がしないでもない。

 

大学を卒業してからは、友人と会う回数が極端に減ったせいで麻雀することは滅多になくなり、当分リアルマネーが関わるギャンブルからは距離を置いている。
いや、その分だけ昨年はギャンブル紛いの投資(投機)にチャレンジしていたので、むしろ脳汁欲求は高まっていると言えるかもしれない。まぁ値動きに対するストレスが半端なかった上に、勝ったから良かったものの、負けていたら今の生活はとっくに崩壊していただろうから、できればもう手を出したくないというのが本音だ。それでも日々、チャートをチェックしてしまうので、そのうちまた買ってしまいそうだが。

一応、健全な人間であるつもりだから、パチンコやパチスロには行ったことがない。
一度でも遊んだら、その沼にハマるのが性格的に確定しているからだ。
直近でハマっているギャンブルと言えば競馬ということになるけれど、これに関しては上手く欲を抑えることができている。一定額以上を買わなかったり、エア馬券にしたりして、てきるだけ損を回避するムーブが定着してきた。

他方で、初期投資以外ではそれほど金のかからないゲームについては、過去のどの段階よりもエネルギーを費やすようになっていて、納得いく結果になるまで延々と繰り返すことも珍しくなくなっている。
以前なら、くだらない、クソゲー、などと諦めていた気がするようなゲームであっても、最後に待っている最高の快感を目指して不思議と頑張れるのだ。

脳汁というのは中毒性があって、慣れすぎると人生が壊れるから有害だとは思うけれど、適度な刺激としては精神安定剤的な役割を果たしてくれるし、幸福度が向上すると考えている。
対人コミュニケーションが人類最下位レベルに少ない私にとっては、もはや欠かせない生きがいになっているのかもしれない。