K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

免許と運転

先日、免許の記載事項変更を行った。
近場の警察署でできるとわかったので向かってみたのだが、お役所仕事というかなんというか、特定の狭い時間帯しか受け付けていないうえに整理券が必要とかで、寒い中で待たされるのは勘弁願いたく……わざわざ府中まで赴いた。
警察署の前に並ぶパイプ椅子に数人が座っていたけれど、受付再開まで一時間ほどあったし、あれは私には異様な光景にしか見えなかった。


まぁ一般的な日本人の特異な特性については置いておいて、府中の窓口では気持ちよく対応してもらえたので、悪い選択ではなかったと思う。
そういえば免許の更新は来年らしいので、いよいよゴールド……になるのかな、私は日常的に運転する機会がないため典型的なペーパーではあるものの、なんとなく身分が一つ上がったようで悪い気はしない。

運転しない私からすると、免許に関連して度々話題になるAT限定の議論などは心底くだらないと思ってしまうのだが、あれはMT免許程度でしか優越感に浸れない心の小さな人間のかわいそうな矜持の押し付けなのだろう。
こだわりは人それぞれなので否定はしないけれど、他者を貶めるくらいなら自分を磨く努力でもしたらどうだ、などと思わないこともない。

せっかく30万円以上かけて教習所に通い、多かれ少なかれ苦労して免許を取得したのに、まったく乗らないのはもったいない。車が趣味の人からしたら、そんな感じに映ることだろう。
私だって多少は後悔というか、惜しいことだと思っているのだ。これまで「それなりの」機会があれば、恐る恐る乗ることも吝かではなかった。
残念ながら、「それなりに」慣れるまでリスクを抑えて練習するチャンスは思っていたほど訪れず、臆病風に吹かれてぶっつけ本番をことごとく回避してきたのだから、今後も運転に関しては明るい未来はなさそうだ。
それもこれも、都内在住による自動車需要の少なさが一番の原因だ。徒歩と電車と、たまにバスですべてが解決してしまう。

実家の車は教習車よりも大きいうえ、自宅周辺の道路がかなり狭いため、いきなり始めるにはハードルが高い。どこかにぶつけてしまったり、身動きが取れなくなったりと、理想的な安全運転を全うできる自信が湧いてこない。
そもそも練習したところで日常的に乗らないのだから意味はないだろうと、論理的な判断をするならそういうことになる。

けれど、免許を取得した意味は確実にあった。
30万円の身分証明書などと言われることもあるが、バカにしてはいけない。これがなければ、私は恐らく数えきれないほど困り果てる場面に遭遇していただろう。
今ではマイナンバーというものがあるから、その意義は薄れているかもしれないけれど、あまり普及していないようだし、身分証イコール免許証みたいな認識はまたまだ根深いと思っている。

大学在学中なら学生証があったけれど、卒業後は免許証がなければ何も手続きができないのではないかと思うくらい、身分を示せるものの種類は少ない。
私はパスポートを持っていないし、暇だった在学中に免許を取得していなかったらどうなっていたことか。
たとえば無職で、免許なし、資格なし、写真付の証明なし、という人もいないわけではないと思うのだけれど、そういう人は住民票の発行なども簡単にはいかないのではないか。詳しいことは知らないが、仮に一切の証明ができない状態に陥ったら抜け出すのは容易ではない気がするのだ。

今、自分が人間として認められているのは、もしかしたら絶妙なバランスの上に成り立ったステータスがあるからなのかもしれない。そしてそれは、些細なきっかけで瓦解しかねない危うさを孕んでいる。
そう思うと、ただの紙切れでも、プラスチックの板でも、軽率に扱うのは憚られるような気になる。
基本的に運転する可能がほとんどないから大丈夫だとは思うが、とりあえず免許取り消しにだけはならないように注意を払って生きていこうと思った。