K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

記憶は物に宿る

引き続き体力を使って部屋の整理を実施中なのだけれど、毎日ではないとはいえ、もう二週間ほど続けているのにようやく半分を過ぎたくらいで、軽い絶望感を覚えている。
なぜ時間がかかるかと言えば、手に取った一つひとつを、これはなんだろうと吟味しているからであって、それはいくら不要品が数が多いのだとしても、私にとっては物の整理における譲れない過程だ。


捨てる物を細かく確認することのメリットはいくつかあって、一つには過去の記憶が蘇ること。以前にも少し書いたけれど、すっかり忘れていた出来事がイメージとして頭に浮かんできて、感慨深い気持ちになれる。
それは生きてきた証であり、ちょっとした人生の宝物を発見したような気分になるから、そういう品を見つけてしまうと、次々と捨てられない物が増えていく。まぁ要するにこれはデメリットでもあるわけだが。
ただ、これまで忘れていたのだから今後まったく自分の人生に必要ないのではないかと言われれば、簡単には首肯しづらい側面がある。というのも、数年ぶりに見つけたそれらが新しい知識の源となる可能性があるからだ。ここで再会することがなければ一生触れることのなかった事柄というのは、実のところ少なくない。
情報量にもよるけれど、それを契機として将来的に活かせそうな想像が膨らむ効果を期待できるようにも思えるため、心に引っかかるところがあるならば、とりあえず取っておこうという判断になる。余計かもしれないが、新しい刺激でもある。
あぁしかし、断捨離なんて、一生できそうにない。

驚いたことがあるとすれば、懐かしのアイテムを目にしても、必ずしも心が動かないということだった。印象深い物であれば、見た瞬間に当時の思い出が想起される。一方で、まるで覚えていない意味不明な物もそれなりに出てくるから、記憶とは不思議なものだ。
なぜ覚えてもいないものを、前回の転居の際には持ってきたのか。理由は簡単な話で、当時はそれが「取っておいたほうがいいと思っていた物」だったからだろう。今回、私が心を動かされて捨てられないと感じた品々のように。
かつては大切な思い出たちが、確かに留まっていたに違いない。けれど、今では記憶の彼方から引っ張り出す鍵としての役割を果たせない。それは、本当の意味で私から解放された「人生に不要」な出来事のイメージ群で、知らないところでいつの間にか供養されていたことを自覚する。


これは私の勝手な思い込みではあるが、世の中には物が捨てられない人と、捨てられる人がいる。前者は私が属する類型で、こうして十年越しレベルで懐かしい感覚に浸る機会を保持している。日常では意識されないけれど、手元に置いてある知識や情報の蓄積は相当数に多いのではないか……と思わないでもない。
後者は、なんでもすぐに整理してしまう。できてしまう。まさに「今」を生きるのみで、基本的に過去を振り返らない。忘れてしまったものはその限りで、そういう人生はいずれ空虚にならないだろうかと、お節介ながらに思ってしまう。
性格は生き方そのものだ。前者は決定や行動が遅かったり、無駄に慎重だったりする。私はどちらかと言えば慎重というより、おっとり、マイペース、という感じなのだろうが、あまり前向きでなかったり過去にしがみついていたりと、それほど明るくない印象を与えがちな人間に多い特徴かもしれない。
後者は次々と新しいことに突っ込んでいく積極性とか行動力が生き方の軸となっていて、だから過去を忘れてしまってもすぐに新しい刺激が心身を満たすのだろう。一面的には、羨ましくもある。

一つだけ、その生き方に対する疑いの感情がある。後者の生き方は元気があるうちはいいが、人間というのはふとした瞬間に糸が切れたように脱力するタイミングがある……はずだ。そういう状況に陥ってしまった時の虚脱感によるダメージは、おそらく暗い空気に慣れている前者よりも、後者のほうが大きいだろう。
長い目で見たときに、私の人生とはなんだったのか、ということを振り返ることができる材料を残しておくことは、無駄にはならないのではないかと、私は信じたい思いでいる。
まぁ結局、私は私の行為を正当化したいだけなのだ。これは願望に近い。