K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

狼狽しない

何かショッキングなことが起こると、人の心は揺れる。
激しい感情に突き動かされて冷静な判断ができなくなったり、思いもよらない行動に移ったり……そして波が過ぎ去った後に残るのは、たいていが大きな後悔だ。
自らの精神が得体の知れない圧力に支配されて、すべてが終わってから我を取り戻す。それはまるで別人格のように制御が利かない。人はきっと、冷静でない自分を常に心の内側に抱えているのだ。

 

精神的に厳しい状況に追い込まれた時に狼狽しないためには、慣れや訓練が必要だと思っている。何事にも動じない人というのはいるかもしれないが、自らに関わる物事に急激な変化が発生して、それで何も感じないというのは自然なことではない。ちょっとおかしな話だ。
私はよく、落ち着いているとかクールだとか、そういうつまらない評価を与えられることがあるけれど(もちろん相手は褒めているつもりなのだが)、それは単に内心が表に、表情に出てきにくいというだけだ。ポーカーフェイスだからといって、まったく動じていないなんてことはない。
心を相手に読まれないようにするというのは、ただの性格的な問題か技術的な問題かということはあるが、意識すれば誰にだってできないということはないと考える。私はおそらく前者なので、それが役に立つ場面では苦労しないけれど、普段から考えていることが相手に伝わりづらいという欠点を抱えていて、それが致命的にコミュ障気質に作用していることは疑いようがない。

まぁポーカーフェイスの話はどうでもよくて、ここで言いたいのは、狼狽しないということは後天的に獲得する特性なのではないかということだ。
生きていれば、様々な場所で様々な人と出会い、時に想像を絶する体験をすることがある。もちろん、予想外の事態に陥ることもある。平時の精神というのは、一般的に穏やかなステータスであるわけだから、突然そこに大きなインパクトが加えられると露骨に波が立つものだ。
他人からどう見られているかはさておき、その波に対してメンタルの平穏を保つことは、とても難しい。
私はこの一年ほどの間に何度も狼狽を繰り返して、慌てた行動に走り、そして毎度のように悔いてきた。前回あれほど失敗をしたというのに、また懲りずにやってしまう。バカなんじゃないのか。学習しない自らの脆い心に、どれだけ呆れたことか。

連休中の話になるが、再度そういった私の心が大きく揺さぶられるような現象に遭遇することとなった。平静を装いつつも、内心どうしたらいいのかわからなくなる。今回もまた、選択を違えてしまうのだろうか。
迷いに迷い、悩みに悩んだ末、私はじっと構えることにした。とても正気ではいられなかったけれど、以前までの私とは違うんだと思い込み、確証はないもののきっと大丈夫だと自分に言い聞かせ、下手に動くことを必死に堪えたのだ。
結果から言えば、その選択は正しかった。やがて窮地に立たされた状況は少しずつ元に戻っていき、心を休められる程度には希望が見えるような形になった。
ただ、メンタルは無傷ではない。失敗して後悔するのと同じくらい激しく、私の精神はボロ雑巾のように消耗した。あと少しで何かが弾けてしまいそうだった。懸命に我慢した末に待っているのは、相対的にマシな状況と壊れた心だ。こんなのを続けていては、いつか気が狂ってしまう。もっと余裕がなければ安心できない。

結局のところ、追い込まれる局面に陥った時点で私は負けているのだ。そのうち感覚は麻痺してくるし、慣れることもあるのかもしれない。ただ、その時にはもはや、今の健全な精神は跡形もなく瓦解しているに違いない。困難というものはきっと、何かを犠牲にしなければ乗り越えることができないのだ。
狼狽しないことが重要であることは十分に学んだ。しかしここからは、狼狽するかもしれない状況にハマる前にリスクを回避することに脳のリソースを使うべきなのだろう。いつまでも馬鹿の一つ覚えで耐えるよりは、着実にそして健康に結果を出すことに注力したほうが効率的だし、最終的に幸福度が増すはずだ。
まぁその、リスクを避けるための分析が一番難しいわけだけれど。