K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

メンタルの保ち方

人間という生き物は機械ではないので、ずっと同じ調子で生きることはできない。動物にも言えることかもしれないけれど、特に人間は知性と感情が豊かなので、調子の波は他の生き物と比べて桁違いに大きいのではないかと思う。
まぁ多くの人は社会性という武器を身につけ、日々必死に調子を保とうと努力していたり、ドン底でも我慢していたりするわけだが。
人として生まれた以上は、ストレスとは切っても切り離せない関係にある。

 

こういうタイトルを付けると、精神面を安定させるコツみたいなものが書かれていることを期待させてしまうのかもしれないけれど、私はプロ・ヒューマンではないので当然そんなことはなく、どちらかと言えば調子の波に振り回されつつも過ごしている日々について、どうすれば上手く生きられるのかという疑問や考察などを思いつくままに吐き出しているだけなのだ。

なんというか、ここ最近ようやく確かな自覚を持つようになったことなのだけれど、私は比較的機転が利くし器用で万能タイプという感じの基本スペック高めな人間ではあるのだが、どうやら致命的に生きるのが下手らしい。
持っている能力を活かさないことに関しては、なかなか右に出る者もいないだろうと思われるくらいで、要するに平均的な人間に比べて途轍もなく無駄が多いのだ。
省エネの手抜きで適当にやっていても、要求される最低限の水準を超えてしまうことが多いばかりに、けれど余力を何か別の事柄に充てることをしないせいか、時間や体力を費やすポイントが、どこか他人とずれている。客観的に見れば、それ自体は問題にはならないのだけれど、主観的なところから端的に言えば、この上ないクソだ。

矛盾しているようだが、実は自己肯定感は非常に大きく、自分自身のことが大好きだ。見方によっては、非常にナルシスト気質なのかもしれない。
というのも、たまに物凄く頑張れる時があって、そういう状況で生み出されたアウトプットは周囲の期待はおろか、自らの予測を遥かに上回るクオリティであることが珍しくないため、いまだに自分の力量や限界を測りかねているところがあるのだ。
常時は無理でも、定期的に休みを挟んで出力をコントロールできるのなら、とても大きな夢を見ることができそうな期待感がある。
いつか訪れる爆発を信じているからこそ、大して生産性のない毎日を受け入れることができる。経験則は重要で、それによると駄目な期間が長ければ長いほど、上昇の幅と期間も長くなるわけだ。もはや伸び代しかない。


さて、ここまでは前向きな考え方だが、その一方で結果の出ない日常に対する苦しみも確実にある。
「いつか」を待つのは、言葉で表現するよりもずっと重い作業だ。
あらゆる事象への感性は相対的であり、意識的なものから無意識的なものまで、環境の変化だけでなく内面の変化が及ぼす自らへの反射は、常に変動している。
昨日は平気だった局面が、今日は非常にしんどい。逆もあって、一晩寝たらどうでもよくなっていたり、むしろ元気になったりする。
その感覚のブレは、前回の爆発から長引くほどに肥大化していき、とうとう理性では制御が不能な状態に陥る。
どのように「感じる」のが正常であったのか、ついにわからなくなるのだ。こういう風に思い、反応を示すことは、はたして好ましいのかどうか。どこかで間違えているのではないか。
いずれにしろ、結果が新局面へと移行しない以上は、その価値判断に再び自信が持てるようになることはない。

悩む前に刺激のほうから飛んでくるような生活が取り戻せれば、きっと今とはまったく異なる状況に包まれることだろう。
数年前まで、あまり好きではないからと避けていた他者との関わりは、ひょっとすると唯一の解を与えてくれる場所だったのかもしれない。
今では、簡単には手に入らないコミュニケーション。性格的に適性があればモチベーションひとつで作り出せそうな人間関係も、今の私には荷が重い。
将来的には必ず求められるものなのだと、なんとなく理解はしているから、とっとと苦手意識なんて捨ててしまいたい。それでも、理想的な環境を構築するに至るまでの過程を想像すると、果てしなく気が重くなって、今の状況では空前絶後の難しさであることもよく理解できるのだ。あらゆる意味で時期が悪い。

しかしマイナスの感情に対してさえも、感性はしっかりと鈍化する。
不安は無数に転がっていて、いつ躓いてもおかしくないというのに、不安定な足元だって慣れてしまえば気にならなくなる。依然としてリスクは変わらないのに、なぜか大丈夫という気になる。
メンタルは置かれている立場や状況に少なからず影響を受けるけれど、それとは別の軸に沿って、楽観と悲観は交互に私を包み込み、時には峻烈に襲ってくる。


ふと目を覚ました時に目の前に広がっているのは、輝かしい道でも、かといって暗闇に満ちた沼でもない。
強いて言うなら「余白」だろうか。
どう描くかは、今後も絶えず進んでいく時間だけが操ることのできる無数の可能性。
私は、それを見てみたいのだ。それだけが、歩みを止めないための唯一の希望となる。

そもそも挫けていない説もあり、立ち直る余地があるのかは不明なのだが、この狭い視野に映る出来事に一喜一憂するくらいなら……たとえ失敗したと思って落ち込んでも、とにかく心だけは上を向いていたほうがマシなのではないか。
そんなこんなで今日も生きている。