K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

崩れた心

今はもう稼働していない、かつて私が使っていたTwitterアカウント……そのTLは、しかし現在も流れ続けている。
当たり前の話だけれど、私が呟かなくなったところでフォロイー各位が同じようにTwitterを辞めるわけではないので、たまに覗けば一方的に彼らの動向を垣間見ることができるのだ。
それほど有益な情報が流れてくるわけではないから基本的には時間の無駄になることが多いのだが、直接会うこともままならない世の中においては、退屈しのぎになることも少なくない。

 

このところ、よく目につくようになったのは、以前からは比べようもないくらい現実的な悩みに関するツイートだ。
もう少し生きやすかったと思われる数年前は、なんというか非常にオタクチックで、くだらない発言で随分と盛り上がっていた印象があるのだけれど、最近は仕事や政治や生活上の問題など、とにかく愚痴に近いものが桁違いに増加している。
私と同様に呟かなくなった人もそれなりにいて、だからより一層、今でもツイートを続けている人が目立って見えている可能性はある。年齢的にも、ちょうど社会の壁に当たる頃合いなのかもしれない。
ただ、ポジティブ色の強かった時と比較すると、あまりにもネガティブな空気に包まれている気がして、自然な移り変わりであるのだとしても、あらためて考えてみるとショッキングな出来事であるように思う。
みんな、それぞれ苦しみながら生きている。なんだろうな、この国は。

きっかけがあれば、もしかしたらツイートを再開することがあるかもしれないと思っていたけれど、それはどうやら難しそうだ。
もはや今さら、知人と繋がりのあるアカウントで何か活動を起こそうなんていう気持ちにはならない。
だから仮に何かを新しく始めるとするなら、見知った目の届かないところから、ゼロからのスタートとなるだろう。


さてはて、そんな私の意思はこの際どうでもよくて、本題はとある一人の社会不適合者についての話となる。ちなみに今回は私のことではない。
社会不適合者といっても立派な人間であるからもちろん多様性があって、普遍的・一般的な社会性を帯びた活動が肌に合わないという特徴は概ね共通して持っていると思うのだが、バックグラウンドは人それぞれであるがゆえに、細かな事情を探っていくと、なかなか理解するのが難しい都合を抱えているということが、往々にしてある。

今日も適当にTwitterを眺めていたら、気になるツイートが目に留まったのだ。
一つひとつを取り上げるのも面倒なので、受けた印象から主旨をまとめると、こういうことになる。
働くのはもう無理だ。怒られるのは嫌だし、けれど自分に能力がないからミスばかりして、すぐ負の感情で一杯になる。でも精神科を受けても病気であると認定してくれない。働かないと生きていけないのに、まともに働けない。このままでは家から追い出されるかもしれない。何もできない自分に呆れる。それなのに無駄にプライドだけは高くて、メンタルが保てない。
……というような感じで、負のスパイラルから抜け出せずに、病みツイートを繰り返している。

私はそれなりにポジティブ志向というか、やりたい大きな目標があって比較的余裕のある環境にいるおかけで、多少の悩みであれば寝たら解消してしまうから、こういう状態に陥ったことがない。しかし、その環境というのもいつ崩れるかわからないし、嫌なことに取り囲まれている時の気持ちというのは、理解できないこともない。
自分が何をしたいのか、どうあるべきなのか。それが不鮮明な状況なのに、心のどこかで「普通」というものを追い求めて何者かになろうとする。それを追っても答えは見えてこないから、悩めば悩むだけ深みに嵌る地獄の輪廻だ。

こうした悩みを立て続けにツイートできてしまうというメンタリティは正直よくわからないのだが、文章にすることで考えを整理して安心感を得たいのか、なんなのか。私が日記を書いているのと、部分的には同じ理由なのだろうか。
多くの知人に見られていると理解しているはずなのに、あるいはそうした意識すら失われてしまっているのか。プライドが高いくせに、Twitterで延々と弱みを晒すことには抵抗がないあたり、私との精神構造の違いが見えてくる。

私は、よくわからなくなった。一歩間違えたら自分と同じような状況に苛まれていたかもしれない。もしかしたら遠くない将来、似たような形で心を病んでしまうかもしれない。
世界は広いし、多種多様な人間がいるから、自分よりも遥かに強大な能力を見せつけられて、劣等感を覚えることは珍しくない。今はその感情を成長の材料にしたいと思えるけれど、それを続けていけるのは自分という存在を信じているからだ。
私は幸いにも、多くの点において基礎能力が平均的な人間より高いようで、実務上の力不足を感じたことはほとんどない。たまに苦手な作業に当たることはあるけれど、全体からすれば僅かだからこそ、能力面に対する信用は大きい。
もし、その支えがなくなったら、どうなってしまうだろうか。私には何もできない。能力が低いから何をやっても成功しないし、だからいつまでも気持ちが晴れない。落ち込んだまま次の作業に取りかかるも、上手くいくはずもなく……ついには嫌気が差して放り投げてしまう。

そこまでいくと、もう自己否定をすることでしかアイデンティティを維持できなくなるのかもしれない。
前向きなアドバイスを貰っても、どうせ自分にはできない、と頭から否定して身体は動かないまま。
だからといって時間が解決してくれるわけもなく、むしろ心にはマイナスの感情が積み重なっていって、日々しんどさが増していく。
駄目な自分に対して、自分は駄目だと思うことでしか、矛盾のない思考ができなくなる。大丈夫だと思い込もうとしても現実には駄目だから大変なわけで、初めから何をやっても駄目なんだと受け入れてしまえば、少しは気持ちが軽くなる。そんな諦めなのだろう。

やはり、わからない。
そこまで追い詰められたことがないから。
いつだって楽しいことや期待できることに溢れているから。
もちろん社会には合わないけれど、なんだかんだ生きていくことができそうに思えているのは、私が楽観的すぎる性格なのか、環境に恵まれているからなのか。

ともあれ、こうして書いておくことで、私の安定した精神がどのようなものであったのか記録することはできた気がする。
可能性は低いとは思うけれど、もし精神的につらくなったら、これを読み返して心を取り戻せたらいいのだが……どちらかと言えば黒歴史的な受け取り方をして、余計にダメージを食らいそうなのが唯一の心配だ。