K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

関節痛

身体のあちこちが痛い。まるで老人のような懊悩ではあるが、痛みとはいつだって誰だって、本人にしかわからないもの。
性格や考え方もそうだが、身体的性質においてもつくづくイレギュラーなものだなと、別に自身のことを特別視したいわけではないが、思うことがある。

 

20代のうちは無理をして働いても、連日徹夜でも、なんとかなる。
そんな世迷言を信じている人間は、かなり多いと思う。恵まれた肉体を持った一部の人間には可能なのかもしれないが、私には難しい話だ。

大学生の頃から、徹夜後に通学して授業を受けるなんてほとんど体力的に不可能だったし、酒を飲んだ次の日には全身の倦怠感や腹痛に悩まされていたものだった。
基礎体力が低い人間というのも、世の中にはいる。私は、ただ会社に通勤するだけでもかなりの苦痛だった。甘えとか、そういう話ではないのだ。同じことをしていても、体感の負担が個人によってまったく異なるということをわかっていない人が、あまりにも多い。
いつから、私の身体はこうなってしまったのだろう。

 

私は極端に痩せすぎているせいで、筋肉量が平凡な生活を送るのにも支障が出るレベルで不足しているのだと思うようになった。おそらく平均的な人間よりもずっと疲れやすいのだろうし、回復も遅い。
最近は四肢の衰弱が顕著で、特に脚の関節は寝たり座ったりしていても、ちょっとした負荷で痛むようになってしまった。年老いた者に対する典型的な表現がぴったりと当てはまる。身体的な痛みとともに生きることを強いられている。
では体重を増やせばよい、という簡単な話でもない。もともとの太りにくい体質と、染みついた太りにくい食生活*1では、多少の過食程度では何も変わらない。胃腸が弱いから無理をすれば吸収できずに出てしまうし、不健康に痩せている身で言うべきではないかもしれないが、不健康に太ることは望んでいない。
必要なものは、適度な栄養摂取と適度な運動だ。今の生活からは、その適度な運動が抜け落ちてしまっている。このままでは、いずれ寝たきりの状態になりかねない。

しかし、残念ながら貧弱な身体では筋トレなどは苦痛そのもので、奮起して始めたとしても、日記などの頭を働かせる営為とは異なり、長くは続かないだろう。苦痛であった通学や通勤が、かろうじて私の肉体を社会活動が可能な最低限のレベルに維持していたとは、なんとも皮肉な話だ。
急激な運動は難しいが、たまに外に出て散歩をすることくらいなら、それほどの負担がないようにも思える。せっかく生活の環境を変えるのだから、新しい習慣として始めてみるのも悪くはないと考えている。もっとも、それまで私の肉体が動ける状態を保っていたらの話だが。

 

平凡な人間が40代に入った頃に経験するであろう身体の不調を、まだ若い時分に知ってしまった私は、長い目で見れば、むしろ有利かもしれない。日頃から、若さにかまけた無理をせずに身体を労わるということを意識できる。それは、数十年後に明確な形として表れるのではないかと。

この間、胸糞悪くなるような思想に染まった記事を見た。内容は、40代を過ぎたあたりで身体の自由が利かなくなり、成長することに対して絶望するというもの。若い頃はいくらでも無理できたのに、同じ感覚で生きることができなくなったことを悟ると、自らの可能性を諦めてしまうのだとか。
心底、くだらないと思った。それこそ、甘えではないのか。
若いのに体が思うように動かない私は、しかし未来に絶望などしていない。自らには、まだまだ際限なく可能性があると考えている。なるべく身体に負担がかからないようにしながらも、成長できるように物事を進めていく。頭の使い方の問題だ。
言い方が悪いかもしれないが、体力にモノを言わせてなんでも力技で進めてきた脳筋は、肉体が滅びると同時にすべてを失う。身体が満足に使えなくなったら終わり。力を加減する分だけ工夫して生産性を高めるとか、培った技術を別の方面に充てるとか、そういう風に前向きに考え方を切り替えればいいのに、どうやら慣れた方法でしか戦えないと思っているらしい。
とても悲しい末路だ。もはや私には関係がないけれど。

 

肉体に束縛されなくなる世界が、時代が、私の生きているうちに到来すればいいな、と最近考えるようになった。
SF的な好奇心はもちろんあるけれど、日常的な身体上の苦痛が取り払われるのだとしたら、それは多くの人間にとって第二の人生を設計するための十分な種になり得る。
そういうものに憧れる少年的な心を、私は忘れないようにしたい。

*1:食事は起床時間次第だが一日に二食か三食で、回数にかかわらず量は並み程度。比較的野菜は多め。間食は一切なし。自ら菓子類を買うことはないし、たとえ家にあっても手を付けない。夕食後は水分以外に何も口にしない。これを守れば簡単に誰でも痩せられると思うのだが、世の中の普通の人間は真似をするのが難しいらしい。