K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

苦手だからと避けている

人間というのはそれぞれ個性を持っているから、人によって得手不得手が異なるのは当然の話だ。
そんな中で、苦手なものに果敢に立ち向かって克服し、あわよくば得意にしてしまおうなんて物好きは、あまりいないかもしれない。
既にできることと、簡単にできそうなことだけに力を注いでいたほうが楽だし、たぶん心の健康を保ちやすい。
けれど時には、苦手なんて言っていられない局面がやって来る。嫌でも向き合わなければ、先に進めない。目標に辿り着けない。私は今、そういう岐路に立っているのだろう。

 

日常的に無意識に避けている事柄は、きっと本質的に苦手なものだ。それに触れるとストレスを感じる。だから関わらない。
ある意味では、生命の本能的な選択なのかもしれない。いざという時、危機的な状況から抜け出すには、そういう直感が役に立つはずだ。
しかし私には、時間的にも体力的にも余裕があって、多少のストレスは許容できるくらいに心は穏やかであると言ってもいい。むしろ、能動的にストレスに近づいていく努力をしないと、徐々に腑抜けていくのではないかと思われるくらいには、だらしない。
そのような現状を反省してみると、長い人生の中でも貴重な時期であるはずの今を活かさないのは、もったいないのではないかと、苦手で避けていたことの一つや二つは克服できるのではないかと。そう思った次第だ。

それでは、将来に繋げるために慣れていく必要があるものは、いったい何か。
これまでの日記で、私が苦手だと書いてきた事柄の中で、最もわかりやすいものがある。
Twitterだ。
慣れている人、自分の手足のように使いこなしている人からすれば、こんな風にわざわざ大それて書くことすら馬鹿馬鹿しく見えるかもしれないが、Twitterという世界は私にとって非常にハードルが高いものの一つなのだ。
どこが苦手なのかと問われれば、一言で説明できる語彙を私は持たないけれど、大きく分けて三つの理由があると考えている。

一つ目は、純粋にコミュニケーション力の問題だ。リアルでの人付き合いと同様、むしろ顔が見えない分だけ余計に、画面の向こう側の人間と言葉を交わすことに苦手意識がある。
実際に目の前に人がいたら、多少は気を遣って話そうと思えるかもしれないし、仮に話が合えば少しずつ心を開いていける。反応が見えるから、相手に合わせた対応も比較的容易だ。
一方でインターネット上のみの付き合いではそうはいかず、心の距離感が掴みづらい。性格的に、自らの発言が相手に与える影響を細かく考えなくてはいけないし、明るい反応が返ってくるまでは落ち着かない。表情のわからないコミュニケーションが、私は致命的に苦手……というよりも、嫌いなのかもしれない。
Twitterの機能であるリプライを、私は積極的に活用できる気がしないのだ。

二つ目は、考えすぎてしまうことだ。呟く内容について、いちいち無駄に意味を考えてしまう。日常的な出来事なんて、わざわざ世界に公開する意味がないではないか。そう思って、結局のところ何をツイートすればいいかわからなくなってしまう。
なんでもかんでも投稿できる人は、思考や心といった自らの内面的な空間と、インターネット上の世界であるTwitterとの間に、絶対的な垣根が存在しないのかもしれない。あるいは、境界があるにせよ非常に稀薄であるか、見えにくいのだろう。それを意識することが滅多にないから、ツイートすることにあまり躊躇いがないのだ。
逆に、それなら推敲すればいいという考え方があるかもしれないが、その場合は到底、140字に収めることができない。以前にも書いたが、日記という形でまとまった文章を表現できるほうが、私には合っているのだ。
まぁ慣れたら感覚が変わるような気もするけれど、今のところ日記で十分だからTwitterを頑張るメリットが感じられないというのが正直なところだ。

三つ目は、情報疲れやコミュニケーション疲れに対する懸念の存在だ。一つ目の理由と関連することかもしれないが、もし仮にTwitterで他者との繋がりが発生したとすると、単純に私のすべきことが増加する。
今の使い方は、特に呟くことはせずに関心のある分野・アカウントをフォローして、流れてくる生の情報を見るというものだ。ただの情報収集用であって、こちらから発信することはない。
誰かとフォロイー・フォロワーの関係になれば、どこかに生きる相手の存在が私の中に出現する。呟きに対して「いいね」を押したり、私に関係があるかもしれないテーマであれば会話をしたりRTをしたりする必要が生まれる可能性がある。
その行為に対して生じる感情は、面倒であるという怠惰なものだけでなく、不安や恐怖も含まれる。おそらく私は、インターネットという曖昧な世界で、無責任に他者に影響することや、目立つことが、心から怖いのだ。苦手意識の根底にある感情は、この三つ目なのかもしれない。

というわけで、この状況を打破するために何をすればいいかと言われれば、恐怖心に打ち勝つことに他ならないだろう。顔の見えない、まったくの他人と会話することに慣れる。そこに楽しさを見出だすことができれば、自然と慣れていくことができるに違いない。
アカウントを作ってから一か月程度で、コミュニケーションのみでフォロワーを数百人まで増やしていける人間がいる。彼らを観察していると、私には絶対に不可能と思えるくらい、様々な人と細やかにリプライを交わしているのがわかる。
相当なメンタルがなければ、あんな芸当はできないだろうから、真似しようと思ってはダメだ。けれど、参考にすることはできる。
最も簡単なのは、一つのコンテンツを中心にフォローしていくことだ。アニメでもゲームでも漫画でも、なんでもいいから共通の話題を使って、「他人」という壁を思いきって破壊していく。
再び壁が形成されるのは、人間として相性が悪いと思った時か、長期的に会話が行われない場合がほとんどだと思われる。そのため、多少は自分の発言を精査しつつ、定期的に会話なり反応なりを見せていければ、関係性が途切れることはないのではないか。
書くのは簡単だけれど、慣れていない私が実際にやろうとしたら、地獄を見る羽目になりそうだが。
まず必要なのは、壁を壊しにかかる勇気なのは間違いないだろう。

 

なぜこのようなことを書こうと思ったかと言うと、ふと動かしていなかったTwitterのアカウントを開いてみたのだ。
昨年の途中までは描いたイラストを投稿していたアカウントで、絵によっては多くの反応(当社比)を貰ったこともある。
この半年ほど、いろいろと身の回りに動きがあったこともあり、最近は稼働を停止してしまっているので、当時と比べてフォロワーは減っていた。
なんというか、せっかく私に期待して近づいてきてくれた人がいるのに、その気持ちを蔑ろにしてしまっているようで、気分が悪くなった。自意識過剰だろうか。
二月のどこかでは新しく絵をアップしたい……などと考えているけれど、このアカウントを継続して使うかどうか、やや悩んでいる。期間が空きすぎてしまったことと、クオリティ的な意味で過去に上げた絵は納得のいかないものが少なくない。
案外、悪くないじゃないかと、自己評価の高い絵もあるけれど、ちょっと気持ちを切り替えたいという想いがあるのも事実なので、簡単には答えが出せない。
まぁしかし、悩むなら絵が完成してからにしろという話でもあると思うから、今は手元に集中すべきなのだろう。

いずれにしろ、現代ではTwitterを活用できない人間は知名度を獲得するのが大変だと思うので、近いうちに抵抗感を排除して気軽に使えるようにならなければならないというのは、確定事項と考えてしまってもよいのではないかと思う。
別に、すぐに上手い使い方をする必要はない。ただ、まったく使えないという状況をどうにか改善するだけで、少しずつ好転していくだろう。あとはもう、ほとんど気持ちの問題だ。