K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

推敲を重ねる

推敲を重ねたからといって必ずしも文章が改善されるわけではないが、経験則的に言えば、勢いのまま書き出した文章のクオリティは推敲しなかった時に比べて明らかに劣る可能性が高い。
とまぁ推敲する余地などあまりない、ほとんど毎日その時々の勢いで書いている日記なんかで語っても、説得力はないかもしれないが。


推敲という一言から想像される行為は、いったいなんだろうか。
書いてみた文章を読み返してみること。違和感のある表現を書き直してみること。文章構成を変えてみて読みやすく工夫すること。
要するに、おかしな点がないかを確認して、できるだけ文章を理想の形に近づける作業になるわけだ。けれど、そもそも推敲するにも一定の能力が必要だということも、ひとつの前提として捉えておかなければならない。
たまにあることだが、本当にちゃんと考えて書いたのか疑問に思えてならない、どうしようもない文章に出会うことがある。
もちろん、ただ思いついたことをそのまま言語化していったら、前後の繋がりが上手くいっていなかったり、適切でない言葉を並べてしまって意図が伝わりにくかったりと、文章に不具合が生じる場合がある。それは仕方ないことだ。
ただ、ある程度の読み書き能力を持った人間ならば、読み返せば欠点に気づくことができるはずなのだ。気づいたからといって、すぐに正解の形がわかるわけではないけれど、妙だと思った段階で一度足を止めることになる。
足を止めて冷静になれば、そのうち別の表現が思い浮かぶかもしれないし、自分には表現しきれないと考えれば丸々カットしてしまう手もある。
推敲とは、ただ書き直すだけでなく、文章全体の中で毒となる要素を排除する機会を得ることもできる素晴らしい時間ではないかと、私は思っている。
だから、なんと言えばよいものか……決して驕っているわけではないけれど、「ある程度は書ける」私からすれば、文章がまるで書けないという人の気持ちがよくわからない。
上手に文章を書くコツ、みたいなものをまとめたサイトがいくらでも見つかる世の中で(その手のサイトに記載されている内容は私にとって常識的なことばかりで、わざわざ意識するまでもないことだが)、SNSが発達して誰でも発信できるようになった世の中で(逆に私はSNSが得意ではないから他人にあれこれ言える立場ではないかもしれないが)、どうして書けないまま生きていられるのか、わりと本気で不思議なのだ。
才能とかセンスとか技術とか、高度なレベルで戦っていくなら無視できないパラメータかもしれないが、一般教養程度に満たないのなら関係のないことだ。必要なのは、ただひたすらに慣れだけではないかと私は思う。慣れていないと、ロクに推敲なんてできない。

推敲の時間は好きだけれど、思っていた以上に時間を取られるから気楽にできる作業ではないというのも事実としてある。
私の場合は、極端な言い方だが、別人にならなければ冷静な視点を獲得することができないという性質を持っている。
どういうことかと言うと、眠らなければならないのだ。書いたそのままの意識では、どうしても主観的な勢いが足を引っ張って、他者が読んだときにどう思うかという最も大切な視点が思考の中心にやってこない。眠ることで昨日の自分は消え去り、新しい意識を人間としてこの世に降臨するようなイメージだ。
だから、ちゃんと書こうとすると少なくとも二日は必要だし、納得がいかなければさらに数日を要する。
もっと効率よく書けたらいいのだけれど、こうやって毎日のように文章を書く習慣を身につけた現状においても、なかなか一筋縄にはいかないのが作文という行為なのだから、たまにいる速度が強みという物書きに私はなれそうにないし、その思考速度は到底理解に及ばない。

時間はかかるけれど、前日には思いつかなかった言い回しがふっと頭の中に浮かんでくると結構な快感だし、見えない終わりに向かっていつまでも思考を巡らせるのは悪いことではない。
まぁ比較的余裕のある今でこそ可能なことで、いずれは短い時間で妥協することを覚えなくてはならないのかもしれない。