K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

文章に宿る感情

日課である日記は、何か大きな存在に促されて勢いで書くこともあれば、一つのアイデアを元に考えながら書くこともある。
今日の内容はどちらかと言えば後者で論理優先、前者は作品に対する感想や熱い想いなどを糧にしていることが多いから、感情が優位に立っているイメージがある。

 

日によって文章の質……というより印象と言ったほうがいいかもしれないが、読んで感じる特徴が大きく異なる場合があるのは、私の持っている論理と感情の振れ幅が極端に表れた場合だ。
基本的には勢いで書くことが多いから、そもそも表現の多様性を追い求める方向性ではあるのだけれど、今回のように勢い任せではない記事は、おおよそ似通った雰囲気を放っているだろうと個人的には思っている。

ふと、日記に限らず自らアウトプットした文章が、どちらに寄っていることが多いのか、興味本位で顧みてみた。

Twitterは一般的に前者が多いだろう。それは使用者の日常と密接に関わっている場合が多いからで、人によっては感情と直結していると言ってもいい。そうでなければ、ここまで大衆の間で流行ることもなかっただろう。
一方、私は日常ツイートをほとんど行わないので、その文章に対する価値判断は難しい。寄っているというよりはどちらにも寄っていない、中間地点にあると考えるのが妥当である気がしてきた。

メールは後者のスタンスに基づいている。今の時代、電子メールを使ったやり取りは大半が企業絡みの関係性において効力を発揮していて、個人的な付き合いの中ではLINEをはじめとした、チャットに近い形のものが主流だろう。
そんなわけで、直近でメールを作成する機会があったのはいずれも対企業という状況だった。客観的に内容がわかりやすいように、ほとんどテンプレートのようなつまらない形式を取る。
もしメールに個性が表れるとしたら、書き手に教養が乏しく表現が稚拙であったり、誤用が目立っていたり、あるいは独特の漢字変換くらいのものだろう。
たとえば「有難う御座います」なんて書く人もいて、私は全部ひらがなでいいだろうと思っているから面白い。そのあたりは、まぁ伝わればいいので気にしないけれど。


上に書いたことは、あくまで基本であって例外もないわけではない。
一見すると後者の性質を纏っているのに、よくよく中身を確かめてみると強い感情が爆発している文章というのも、時には存在するのだ。
書いている時には意識していなかったことだが、あらためて振り返ってみると、これは相当……と苦笑いが溢れてしまう文章が、わりと最近あった。
住居の管理会社に送った文章だ。形式的な部分はほとんど完璧と言ってもいい。お手本のようなビジネス文章。
しかし内容は、読んでいくとブチ切れているのがよくわかる。「あっ、こいつめっちゃ
怒ってるな」と相手に思わせてしまうくらい、感情を想起させる要素が散りばめられていた。
まぁそれもそのはずで、一応は読み手を想定して文章をしっかり練る意識に立脚していながらも、行動の原動力は怒りそのものなのだから、アウトプットに含まれる成分がエネルギッシュであるのは、ある意味で当然のことかもしれない。

「お気持ち表明」なんて揶揄される文章も、それと似たようなものだろう。爆発した感情をなんとか他人に伝えようと、真面目に形を取り繕う。私は別に悪いことではないと思うのだけれど、どうやら一般的には好ましいものではないらしい。
とすると……送ってしまったものは仕方ないが、管理会社に送ったアレは悪手だった可能性も否めず、どう捉えてよいものか。
取って代わる表現が思いつかないわけではないけれど、それでは私の必死な訴えが伝わらないだろう。
こんなのに正解なんてないはずだ……とは思いつつ、けれどいまだに期待していた対応が行われていない現実を鑑みると、ひょっとして失敗だったかもしれない。

ともあれ、私の自己満足である日記はなんでもいいけれど、やはりそれ以外の文章に関しては書いたら日を空けて、しっかり推敲を重ねてから表に出すべきなのだろうと思った。
特に顔も知らない相手であれば、自分の感情を見せてもメリットがない。
逆に親しい間柄であれば、その感情の勢いを利用して直接、心に訴えることもできるだろうが……そんな珍しいケースに出会うこともなかなかないだろう。過去に感情先行で功を奏したことは、片手で数えられるくらいしか記憶にない。