K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

1000日目

2020年の半ばから続けている本ブログの更新が、本日1000回目を記録した。
日課として欠かさず、という目標を軽い気持ちで掲げて、ここまで途切れさせることなく継続できているのは我ながら大したものだと思うけれど、実際には更新が遅れて翌朝になることも珍しくないし、最近はネタ不足も相まってモチベーションの低下および内容のマンネリ化を招いているから、正しく継続できているとは言えないかもしれない。

 

1000日目

思い返せば、始めた当初は何か面白いことを書いてやろう、考えてやろうと、日々ネット上にアンテナを張り巡らせてエネルギーを割いていたような気がする。
単なる文章だけで終わらないよう、リンクなどを駆使して読み応えのあるような工夫を施していたり、シリーズめいた記事を不定期に書いていたりした。
ただ結局、基本的には誰も読むことのない私の日記であって、わざわざ手間をかける必要性を感じなくなっていき、日課として消化していくために極力、省エネで済ませられるような形に落ち着いてきた。

そういうわけで、今はもう内容云々というよりは、不断に文章をアウトプットすることによって、他者との交流に乏しい孤独な私が、なるべく思考力を衰えさせることなく生活を営めるようにするという、非常に狭い役割しか存在していないように思う。
まぁこれを習慣にできていなかった場合、ひょっとしたら何も考えられない愚図に堕ちていた可能性は否定できないため、決して無意味ではない気はするのだが、普通に他の人と関わる毎日を過ごしていたらほとんど必要のない作業と考えれば、いったい何をやっているのだろうと虚しさに駆られないわけではない。

 

さて、こうした振り返りは三周年となる節目のタイミングのほうが適切な気がするため、この一年の総括だとか今後に向けての新たな目標だとかは、現時点で書くつもりはない。
けれど、やはり私を取り巻く環境の問題と関連して、日記そのものの質の低下は深刻な課題として受け止めなければならず、このまま惰性で続けることにどれだけの意味を見出だせるのかは定かでない。
特に書きたいこともない日には、筆を執らないという選択肢があってもいいのではないか。毎日の定期更新ではなく、頻度高めの不定期更新に変えても、思考力維持という目的は果たせるのではないか。
ふと、そんなことを思った。

欠かさずに続けている作業を中断した時に、何が起こるのか。
その典型的な姿を、私は知っている気がする。
きっと、思いのほか腰が重くなるに違いない。それほど気負うことなく続けることのできていた日記を書くという時間が、日課としての機能を止めた途端にハードルの高いミッションに様変わりする。

書けなくなる、かもしれない。それが怖いのだ。
地味に可処分時間を圧迫している日課ではあるのだけれど、もし必須でなくなったとしたら、ここぞとばかりに怠慢な私が顔を出すことだろう。
ああ、なんだかソーシャルゲームに似ている。遊びという捉え方はしていないのだが、主にモチベーションという観点では極めて似た構造であるような気がしてならない。

今のところ、書くことは苦痛ではない。ただ、何を書けばいいのかわからなくなることは増えた。
上述した不安があるため、スパッと止めることはできないだろう。ただ、絶対に書かなければならないという縛りは排除して、場合によっては書かない選択をする日を設けるのも、長い目で見ると精神の安定化に繋がるかもしれない。
ネタに困って書けずにいて、しかし日課だから達成せずには眠れない。結構なストレスなのではないかと思う。