K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

「好き」と「嫌い」の尊さ

このアニメが好きだ。
いくらそう主張したところで、見ていない人間には魅力が半分も伝わらないし、見たからと言って同じように高い評価を下すとは限らない。
生きている限り、いや死んでもなお価値判断というのは際限なく行われるものだけれど、それは本質的に人間の数だけ存在するように思う。

 

あの人が面白いと言った作品を、私は好きになれなかった。私が心からハマった作品を、あの人は見向きもしなかった。
よくある話だが、特に趣味の領域において他人との共通の話題を持つことや、その上で好みが一致することなんて、最初から期待するものではない。
生まれ育った環境や、持って生まれた素質が違っている以上は、対象物に向ける視線だって相応に異なるものなのだから。

しかし、それなりに人生を歩んでいたら、どこかで趣味嗜好が一致している人間と出会うことがある。馬が合う、なんて言い方が適切だろうか。ウマ娘はいいぞ。
運がよければ義務教育のうちに繋がりが持てるだろうし、大学は最も見つけやすい空間だ。社会に出るまでには、きっと気楽に付き合える友人とやらが一人や二人は出来ているものだろう。
コミュニケーション能力に乏しく、人と触れ合うのが不得手な私でさえ、一応は人並みの学生生活を経験してきたおかげで、数は少ないが友と言えそうな存在がいないわけではない。

 

さて、しかしながら、せっかく共通の趣味を通じて親しくなった間柄であっても、時にはコンテンツに対する評価が大きく異なることがある。
似たような価値観を備えているはずなのに、どうして感想の内容が大きく乖離するのか。私の心を大きく動かした、いわば「神回」が、やつの心には響かなかったようだ。やけに薦めてくるから見てみたが、何が面白いのかわからないんだが。
頻度は多くないけれど、珍しいことでもない。
まぁ趣味が近いとは言っても別の人間なんだから当たり前だろうという話で、実際のところは不思議でもなんでもないわけだ。ただ単に、人それぞれにどう思ったか。それだけのことであって、スッと出てきた感想なのだから他の存在に外側から否定されることが許されるはずもない。

そんなことを考えながらインターネットをやっていると、直近に出会った私の「好き」について述べられた他人の意見が、やたらと目につくことに気がついた。
なるほど、なるほど。確かにそういう見方もある。うんうん、そうだよね、素晴らしかったよね。
表現方法は様々だが、概ね同意できるので気分がいい。けれど、ときおり唐突に、その心地好い空気を壊す人間が現れる。
まるで私の感動を真っ向から否定するような、心のない言葉。作品に携わっているスタッフたちの熱意を蔑むような、汚い罵り。
ああ、なんてことだ。ここは同志が集まる場所ではなかったのか。
当然、私はその存在に対して不意に敵意を抱く。わざわざ反応はしないけれど、なんだコイツ、ふざけるんじゃない。そんな風に思ってしまうのだ。

しかしふと、考えを改める瞬間がやってくる。いや、違うのだ。この人だって別に、根本的なところに悪意を孕んでいるわけではないはずだ。
文章を書くためにはエネルギーが必要で、意見を他人にぶつけるという意味では、内容の善悪は関係ない。わざわざ時間と労力を割いて否定的なことを書くくらいなのだから、何かちょっとしたズレがあれば、逆の立場にいた可能性だって少なくないのではないか。もともとは、大きな期待を寄せていたのではないか。
それは、まさに大きな気づきだった。
あるコンテンツが人間の感性を通過した後で、その人から出てくる想いというのは、絶対的なものなのだ。

「それはあなたの感想でしょう」なんて言われてしまうと、煽りみたいに聞こえることがある。事実、煽りであることも多いわけだが、感想であるということはすなわち、他の何者にも否定し得ないということでもある。
だって、一人の人間がその時に感じたものは、その人だけの宝物なのだから。周りがどう思おうと関係がない、コンテンツと人間の一対一の状況で生まれる貴重な感情の揺らぎなのだから。
もちろん、できれば肯定的であるほうが丸く収まるから、他者のそれに相対するなら個人的には「好き」に浸っていたいところだけれど、「嫌い」から出発した想いもまた絶対的であり、コンテンツをより深く好きになっていくためには受け入れるべき、非常に尊いものなのだと思う。

 

感想は個人の能力に依存する部分が大きく、経験や知識、教養、技術、などなど、人間のレベルによっても感じ方から表現方法まで変わってくるため、一律の基準というのは存在しない。
昔の自分と今の自分で、同じ作品に対する感想が真逆ということもあるだろうし、視点が変われば情緒を感じるポイントも変化してくるものだ。

そんな中で、誰かの感想に言及できる要素があるとすれば、感想が的外れであった場合くらいのものではないかと考える。
上で感想は絶対的と書いておきながら的外れとは……という感じではあるけれど、たとえば「ここがおかしいから駄作!」という感想に「こういう理由でこんな構成になっている。だからおかしくない」と指摘して納得してもらえれば、評価はくるりと翻るかもしれない。

受け手の能力が低いがゆえに起こる悲劇ではあるけれど、あるいは逆のパターンも考えられる。目が肥えている人間には陳腐にしか映らないが、純粋な子供にとっては至上の娯楽作品であるという……むしろ「アニメ」という分野の性質上、そちらのほうが多いかもしれない。
既知の概念が邪魔をして、素直な目線で見る機会を失ってしまった哀れな感性……私も場合によっては陥りかねない悲劇だ。

 

いずれにしても、何かを見て感じたこと。それは基本的に絶対的なものであるし、他の人間の感想や意見も、それが作品の持つ力によって引き起こされた感性の言語化であるならば、本来はすべてに価値があって然るべきなのだろう。
一見、議論する価値のないような相手であったとしても、その人を駆り立てているものはなんなのか……と考察する材料にはなる。

自らと同じ考えばかりでなく、そうでない文章に対しても一定の敬意は必要なのだろうと、今後は少しばかり他者の考えに向ける見方を変えていこうと思った。