K's Graffiti

文章を書いたり絵を描いたりします。

怪文書

ここ数日、ネット上で「怪文書」と呼ばれるものを目にすることが多い。
どのあたりが「怪文」であるかと言えば、凝縮された妄想力が一気に解放されたかのような独特の雰囲気を放っていて、ある種の愛に満ち溢れている点だろう。
見方によっては書き手の狂気の具現化とも取れるせいか、それらに平常心理で挑んだ読み手は何か恐ろしい存在に触れたかのような感覚に陥る。

 

この手の長文を投稿する人間は普段から文章を書き慣れているか、あるいは妄想する力が甚だしく強いため、その莫大なエネルギーから放たれた文章は「上手い」ことが少なくない。
「上手い」というのはつまり、実際の、現実の存在がどうであるのかを知っている読み手が、「ひょっとしたらありえそう」と思ってしまうくらいにはリアリティが高いのだ。
私もいくつか読んだけれど、どれも気に入ってしまった。なるほど、こういう楽しみ方があってもいいのか……と。

複雑な背景があるゆえに、どこまで二次創作として描き出してよいものか、その線引に悩みながら試行錯誤をしている様子が、このところ散見される。
私も何かを描いてみようと思ったけれど、どこまでが許されて、どこからが駄目なのか……もちろん愛と敬意を前提にしたい気持ちは強いけれど、その判断は私個人だけの感覚に委ねられて下されるものではない。
空気感、という今のところはちょっと曖昧なものを物差しにして、けれどある程度は本能に従いつつ、妥協点を探る営みがある。
そんな中で生み出された特異点が、この「怪文書」なのかもしれない。

絵は見た者の脳内に、ほとんど直接そのイメージを流し込んでくる。常識や倫理観は人それぞれで、受け取り方は千差万別とはいえ、一枚の絵が普遍的に与えると思われる一定のイメージというのは確かに存在するから、仮に文句を言われたら、それに抗う有効な手段は乏しい。
しかし文章であれば、そのイメージは読み手の力に大きく依存する。たとえば小説を読む時には、世界観や登場人物を頭の中で想像し、場合によってはアニメのようにダイナミックに動かすことがあるかもしれないけれど、そのイメージは個人差が大きいのではないかと思う。ラノベがアニメ化する際に、思っていたのと違う、なんてことは日常茶飯事だろう。
文章に対する細部への解釈は、まさに自由の領域なのだ。イメージを規定しない。なんて素晴らしいのだろう。

そんなわけで、溜まりに溜まったリビドーの向かう先は、強烈な文章としてアウトプットされる流れが出来ているように思う。
まぁこうして一気に流行ることで、一時的にせよインターネット・ミームとなってしまうのはなんだか変な誤解を生み出しそうで、ちょっとした怖さもあるけれど、今のところはアンダーグラウンドでの行為が表で僅かに取り上げられただけだから、しばらくは大丈夫なのではないか。わからないが。
便所の落書きに対してわざわざ殴り込みにいく人間も、そうそう現れないだろうし、これを密かな楽しみとして捉えておくのは悪いことではないと考える。
何より、あれらの文章に私は愛を感じたのだ。入れ込んだキャラクターに対する、どうしようもない感情。むずむずして、抑えきれない。それをどうにか形にして、ようやく自らの中でバランスを取る。その結果として出てきたものは、ただひたすらに尊く、愛の結晶と言ってもいい。

 

ちなみに、私も似たようなもの書こうと思えば書けると思っているけれど、Twitterや某掲示板で晒すほど承認欲求に飢えているわけではないし、日記に残しておくほど(主に将来の自分に対して)恥知らずではないので、ひとまず頭の中だけに留めておくことにする。
まぁ個人的には、コンテンツそのものや元ネタに対しては主観的な経験を交えつつ非常に熱く語ることができるのだけれど*1、キャラクターそれぞれに向けた熱というのは、今のところ大して爆発的ではないのだ。だから発散に困っていないというのもある。

なんというか日々の日記のほうが、よほど「怪文」かもしれない……などと、ふと思うのだった。

*1:考えてみれば、私はいつだって物語を中心にコンテンツを楽しんでいる。キャラクター単体への愛がコンテンツに対する情熱を上回ったことは、片手で数えるほどしかないかもしれない。